『職場では着古しのフロックコートで、昼食はお茶のみ。家財を競売にかけ
てもせまりくる債権者の群れ。妻は経済的破綻から精神の安定をきたし、
子供は栄養失調に。子供たちにとって厄介な存在になっていく母、 家庭
は暗い空気に沈んだ。』
この人物の30代時ぶんの、家庭内の描写です。
官吏の道を志し、美しい妻と聡明な二男一女に恵まれた比較的順調な20代
終了時と同時に訪れたこの事態は、祖父の残した莫大な負債によってもたら
されました。
・・・このままの状態が続けば、そのまま人生が終わっちゃう方がほとんど
ですよね現代なら。まずまちがいなく家庭崩壊から一家離散か。
しかし、この人物は仕事は、まっとうしちゃう。
この人物のこの時代の社会的な仕事面での人物評はつぎのよう。
「実に勉強家で責任感がつよい」
「1日の欠勤もなく部下の誰よりも早く出勤・誰よりも遅く退社」
「部下思いで、彼の部は慈悲深く統率されていた」
・・・どうにも、逆境にある自分を忘れるがために、仕事の鬼になったかの
ような。いやいや ひょっとすると、たずねくる債権者を避けるがために仕
事をしているような仕事ぶりです。
こういった困窮した生活状況貧乏に同情する人にたいする本人の答えも、すご
いんですよ。いわく・・・
「つらいのを通り越して平気です」
「なあに貧乏とけんかして負けなければ良い」
というものです。
この多重債務者でもあった政治家の名前は、小村寿太郎 。
幕末に開国した日本が結んだ不平等条約による関税自主権を回復させたこ
とで、「誠をもって国家に身を捧げる」 と評された明治を代表する外交官です。
◎ 実務家しての小村/藩閥政治の中での異例の抜擢
現在の東大へ英語組に入学後、かれの学業成績は群をぬいていて、
明治八年、第一回文部省留学生として渡米、ハーバード大学で法
律を修め、卒業後、ニューヨークにおもむき、前司法長官で弁護
士として著名なピールポンドの事務所に勤務して法律の実際を学
び、明治十三年、二十六歳で帰国した。
ポーツマス条約に際しては、フランス語も習得。ロシア側のフラ
ンス語会話をそ知らぬ顔で理解していたエピソードも有名。
◎1901年のポーツマス条約締結後、その後の小村寿太郎
1908年、成立の第2次桂太郎内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平
等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。
1911年に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。
思うんですよ。 こちら 、そして こちら 。
「夢で終らせない農業起業
」「里地里山複合大汚染
」