【大亜細亜・創刊号】 王道を貫いた大三輪朝兵衛 浦辺登 | 大アジア研究会

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そのため、わたしたちは「大アジア研究会」を立ち上げ、機関紙『大亜細亜』を発行しております。

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大三輪朝兵衛について 

 

 大三輪 ( おおみわ ) 朝(ちょう)兵衛(べえ) という男がいる。出身地の筑前(現在の福岡県)でも彼の名前を知る人は少ない。むしろ、神道家・葦津(あしづ)耕(こう)次郎(じろう) の伯父と言った方が、少しは通りがよいかもしれない。
大三輪は天保六(一八三五)年六月四日、筑前・箱崎村(現在の福岡市東区箱崎)に生まれ、もとの名を大神(おおが)一貫(いっかん)といった。実家は代々、尚武の神・筥崎八幡宮宮司の家系だった。大三輪の父は大神(おおが)嘉納(かのう)を名乗り、母は福岡藩士・井上弥七の娘だった。遠い祖先には、宇佐八幡(大分県宇佐市)の創建に関わった大神比義がいる。宇佐八幡は和銅元(七〇八)年の創建と伝わる。そこから数えても、約一三〇〇年の歴史を誇る家でもある。
その大三輪が生を受けた頃、日本周辺には異国船が遊弋し、国内は飢饉に見舞われた。天保八(一八三七)年、大坂では大塩平八郎が義挙に及び、内外ともに不安定な時代だった。


大神家の苦難

大三輪朝兵衛には葦津磯夫という弟がいる。磯夫は神道家・葦津耕次郎の父で筥崎宮宮司だった。この大三輪、磯夫の兄弟は、幼少の頃、苦難に遭遇した。
江戸時代、幕府は五人組という仏教寺院を中心とした統治を行なった。神仏混交といいながら、神官もいずれかの寺院に属し、仏教集団の下部組織的扱いを受けた。幕末の頃、大三輪の伯父・大神多門は、神道復活を願い京の一条家を頼りとした。この頭越しの対応が福岡藩寺社奉行の怒りをかい、多門は玄界灘に浮かぶ玄界島に遠島となった。同時に、多門の弟嘉納(かのう)(大三輪の実父)にも累が及び、筥崎宮を追われた。大三輪の一家は、筥崎宮に近い箱崎浜の納屋小屋に移り住んだ。一家を哀れに思った漁師が提供してくれた住まいだったが、そこでの生活は乞食同然だった。
病弱の父・嘉納に代わり極貧生活を支えたのが大三輪だが、浜に流れ着く海草を集めては近隣の農家で米や野菜に交換。その野菜を博多の町に行商に行き、帰りには糞尿を農家に運んで野菜や米に換える。食事は拾った海草、大根葉を混ぜた粥をすする生活を送った。今も葦津家では、大三輪、磯夫兄弟が耐え忍んだ苦労を忘れないため、正月には大根葉の入った粥を食べると伝わる。


大志を抱き長崎に向かう大三輪

大三輪の幼少時の苦難は、敬神尊皇、神道祭祀の復古を伯父の多門が主張したことから生じた。しかし、その敬神尊皇、神道祭祀の思想は大三輪にも、弟の葦津磯夫にも絶えることなく伝わっていた。時代が明治という新しい世に近づくにつれ、ようやく、一家に少しずつ、明るい兆しが見え始めた。
大三輪は行商の合間、竹細工を売って九州遊学の資金を溜めた。寛永四(一八五一)年、大三輪十六歳の時だった。九州各地を見学する最終地は長崎だった。この当時、長崎には日本全国から向学心に燃える青年が集結していた。私費、藩費、篤志家の支援を受けた青年たちが長崎で蘭学を学んだ。出身地別に青年たちの名前を記した「長崎遊学者名簿」を確認すると、大三輪長兵衛の名前を見出すことができる。筑前、筑後、豊前という現在の福岡県出身者の欄には、貝原益軒(福岡藩儒者・本草学)、金子才吉(イカロス号イギリス水兵惨殺事件の犯人)、田中久重(発明家、東芝・創業者)、永井青崖(蘭学者、勝海舟の蘭学の師)等の名がある。
この長崎で、大三輪朝兵衛は確信することがあった。国の盛衰は通商交易によって大きく左右し、攘夷論だけでは日本の独立は危うい。真の独立のためには、開国して力を蓄えるべきと。

 

神職を磯夫に譲り、商人を志す大三輪

安政五(一八五八)年、正月。二十三歳になった大三輪朝兵衛は故郷の筑前箱崎を出て、大坂で商家の雇人となった。幼少の頃から浜辺の海草を集め、糞尿を野菜や米に換え、それらを売って生活をしていた大三輪だった。筥崎宮の神職を継げる立場だったが、弟の磯夫に譲り、大三輪朝兵衛は商人の道を選んだ。安定収入の道を選ぶことで、親族の生活を支えようという気持ちからだった。
商人としての才覚を評価された大三輪だったが、乞われて木屋與兵衛の番頭に座った。ここで、北前船での商売を発展させたが、主人急逝の後も主家を護った。この時、大神姓を大三輪姓と改め、生涯、大三輪朝兵衛を名乗ることになる。二十五歳の時のことだった。同時に、弟の磯夫も大神姓から葦津姓に変えた。兄弟ともに、何か心に期することがあったのだろう。ちなみに、この大三輪姓の由来だが、奈良の三輪山からとったと伝わる。
そして、主家の後継者である木屋佐太郎が成人すると、大三輪は商売の一切を遺して独立を図った。この行いは、幼少の頃、自身の家族が路頭に迷った経験からの判断だった。自分が受けた苦労を他者に負わせてはならない。そういう気持ちからだった。
しかし、この大三輪朝兵衛のこの決断は、信用を重んじる浪速商人の評価を絶対的なものにしたのだった。
余談ながら、この大三輪は土佐閥・立志社事件に関係していたといわれる。大坂での屋敷と旧土佐藩の蔵屋敷が近かったことから、大三輪の自宅に林有造、大江卓、竹内綱などが出入りした。その関係で後藤象二郎とも親しかった。立志社事件への大三輪の関与について詳細は不明。しかしながら、大三輪の長男奈良太郎の先妻は岩村高俊(旧土佐、林有造の弟)、後妻は山内豊(とよ)盈(みつ) (土 佐山内家東邸)の娘であり、土佐閥とは姻戚関係を結ぶほどに深い。
土佐閥を通じて西郷隆盛とも関係があったが、決起の資金提供の便宜を図っていたのではと考えられる。大三輪が政治を志し、大阪府会議長、大阪市会議長、衆議院議員を務めたのも、土佐の自由民権運動の影響からと考えられる。


筥崎宮の鬼門封じ

ここで、大三輪朝兵衛の故郷・筑前箱崎の話に戻りたい。
大三輪が生まれ育った筑前(現在の福岡県)だが、関ヶ原の戦い(慶長五年、一六〇〇年)以降、黒田家が統治することになった。大陸との交易で栄えた博多だったが、新しく領主として入国した黒田家は博多の西部に「福岡」という武士の町を構築した。いわば、商人の町博多に武士の町福岡が同居する形となった。
古くから都市を形成していた博多だったが、筥崎宮はその博多の町の東部に位置する。その筥崎宮は新年の「玉せせり」、秋の「放生(ほうじよう)夜(や) 」という祭礼があり、 多くの善男善女で賑わう。その筥崎宮(旧官幣大社)は尚武の神らしく楼門には「敵国降伏」の勅額が懸かり、拝殿は北を向いている。
睨みをきかせる先には朝鮮半島がある。「敵国降伏」とは武力で威圧するものと思ってしまうが、戦いではなく徳によって従わせるという意味。有事には真っ先に他国の侵略を受け、平時には潤沢な交易の富を享受する博多の願いでもある。その昔、二度にわたって蒙古の軍勢が襲来した地でもあるからだ。
筥崎宮周辺は、その昔、白砂青松の松原だった。その筥崎宮から東北方向、鬼門の方角にわずかばかりの墓地が残っている。ここは、代々、筥崎宮宮司の墓がある場所で地蔵松原と呼ばれる。平成三(一九九一)年の都市計画によって改葬され、石のオブジェが並ぶ公園のような印象を受ける。
しかし、この墓地には徳による、日本と朝鮮との信頼関係を示すモノが残されている。


葦津家と大三輪家の墓所

墓地の中心には現在の筥崎宮大宮司の田村家の墓所がある。それを囲むように、宮司の墓石が並んでいるが、神道でありながら仏式の墓石もある。それは神仏混交時代の名残りとでもいうべきものか。
この墓地の一隅に、筥崎造りと呼ばれる特徴的な鳥居がある。その中心には葦津家奥津城(墓)があり、左手に六角形の玉垣に囲まれた葦津耕次郎の墓、右手に大三輪長兵衛の墓がある。葦津家の墓所に大三輪姓の墓を設けることで、両家が同族であることを確認するためと思える。
この地蔵松原の葦津耕次郎と大三輪朝兵衛の墓だが、その両者の墓の前に奇妙な石塔が立っている。まるで、大きな土筆のような石の塔だが、その形状、彫り込んである細工から、日本のものではないと判断できる。
これは、朝鮮王・高宗が大三輪朝兵衛慰霊のために贈った石塔だった。大三輪と朝鮮王・高宗との間に、どんな関係があるのだろうか。


朝鮮王の招聘を受ける長兵衛

ここで、再び、大三輪が大坂で独立し、北海道物産商社、第五十八国立銀行手形交換所、農商務省設置、大坂商法会議所設立に関わった頃に戻る。大坂商法会議所といえば薩摩出身の五代友厚を連想するが、これは大三輪が商法会議所設立の建白書を内務卿・大久保利通に提出した結果だった。経済人として大三輪は積極的に明治政府に働きかけている。  明治二十四(一八九一)年のある日、長兵 衛の店を朝鮮代理公使の李 ( り ) 鶴 ( かく ) 圭 ( け ) が訪ねてきた。以前、朝鮮の商人 が詐欺に遭い、難儀しているところを救った「敵国降伏」の勅額と楼門(筥 崎八幡宮)葦津家累代墓所、筥崎造り の鳥居(地蔵松原)大三輪長兵衛墓と高宗から 贈られた石塔(地蔵松原)葦津耕次郎墓 (地蔵松原)大三輪だったが、そのお礼を述べにきたのだった。大三輪は名前も何も名乗ってはいなかったが、大きな屋敷に住み、体格の良い男というだけで長兵衛とすぐにわかった。当時、大坂の富豪・淀屋辰五郎の邸を買い取り、身の丈は六尺余という大男といえば、大三輪を置いて他にはいない。
長兵衛が援けた朝鮮の商人は、朝鮮王・高宗(一八五二~一九一九)が抱える商人だった。悪徳商人に騙され、帰国費用にも窮していたところを、隣邦の方々の苦難を見捨ててはおれないとして援けた大三輪だった。公使は謝辞を述べに訪問したのだったが、その大三輪の人格、貨幣経済にも明るいことにいたく感心して帰国した。
今度は、朝鮮の弁理公使金(きん) 嘉(か)鎮(しん)が大三輪のもとを訪ねてきた。朝鮮国王の招請状を持ち、朝鮮政府の経済顧問に就任して欲しいとの高宗の申し出だった。
明治政府は西郷隆盛の「征韓論」を退けたが、直ちに朝鮮との条約締結に向けた動きに出た。この時、朝鮮の首府を護る江華島の砲台を砲撃し、武威によって開国させた。このことは、朝鮮の日本に対する根深い反感となった。従来の朝鮮通信使という片務的な文化交流では、相互理解にまで至っていなかったこともある。
明治二十四年、大三輪長兵衛は渡韓し、朝鮮政府の経済顧問に就任した。大三輪は通貨改革、京釜鉄道敷設など、朝鮮の近代化に尽力している。大三輪に対する高宗の堅固な信頼は、この当時、何かと波風の立つ日朝関係を振りかえると極めて稀有な出来事といえる。


握りつぶされる葦津耕次郎の諌言

先述の通り、葦津耕次郎は大三輪長兵衛の甥だが、長兵衛に従い半島、大陸での事業に参画した。神道思想家として著名な葦津だが、若き日、大三輪長兵衛の薫陶を受けている。
この葦津は、朝鮮に対する日本政府の政策に諌言する人だった。人の道に外れる事々を許さず、朝鮮神宮を建立する際も朝鮮の神様が祀られていないことに強い不満を表明した。当然、朝鮮併合などは大反対だった。
大三輪長兵衛も葦津も玄洋社の頭山満とは深い付き合いがある。頭山は日本と朝鮮との対等合邦である「朝鮮合邦」には賛成したが、「併合」には反対した。昨今、合邦と併合との相違を理解せず、その言葉を混同して使用する研究者が多い。朝鮮をパートナーと見る「合邦」か、吸収合併する「併合」とでは意味が大きく異なる。
さらに、葦津は満洲域での軍部の横暴にも注意を喚起した。昭和十二(一九三七)年の日支事変勃発においては『日支事変の解決策』として、双方に反省を促す一書を著した。さらに、平和的解決を日本政府に求めた。
が、しかし、これら葦津の意見や著作はことごとく、政府に握りつぶされてしまった。
ちなみに、この葦津は玄洋社の社員名簿で確認はできないが、『玄洋社社史』緒言に記されるほど、一目置かれる存在だった。


朝鮮王高宗の石塔

大三輪長兵衛が朝鮮・高宗の経済顧問に就任したのは、朝鮮に対する慈悲深い眼差しからだった。西郷隆盛(南洲)は覇道ではなく王道をと説いた。真の文明国であるならば、文明が遅れている国に親切丁寧に手を差し伸べるはずだと。
大三輪長兵衛の行動を見ていくと、この西郷南洲の教えを彷彿とさせる。同じく、その薫陶を受けた葦津耕次郎にも同様の主張、行動がみられる。
地蔵松原の大三輪長兵衛、葦津耕次郎の墓前には朝鮮風の石塔が立っていることは述べた。風化して、はっきりとは分からないが、葦津の墓にある石塔には一対の獅子、もしくは狛犬のようにも見える彫り込みが見える。
現代史の解説では、玄洋社は朝鮮や大陸を侵略する日本政府の先兵であったと記述される。しかしながら、葦津の『日韓併合論』には、頭山が日韓〈併合〉に反対していたとの意見が記されている。頭山は満洲建国にも反対し、満洲国皇帝溥儀の招宴を辞退したほどだった。
その頭山と親しい大三輪長兵衛は隣邦の商人を援け、朝鮮国王・高宗の経済顧問として貨幣経済の改革、京釜鉄道敷設による経済発展を推進した。葦津耕次郎も、王道をもって隣邦朝鮮と接した。大三輪、葦津と肝胆相照らす仲の頭山満も同じ考えを示している。戦後、玄洋社はGHQによって解散させられ、その真実は封印された。戦前は戦前で、日本政府によって葦津等の意見は握りつぶされてしまった。
しかし、大三輪朝兵衛、葦津耕次郎という王道を実践した人物を辿ることで、真の近現代史が浮かび上がるのではないかと考える。
明治四十一(一九〇八)年一月二十九日、大三輪朝兵衛が没した際、朝鮮王・高宗は大三輪への感謝の気持ちから石塔を贈った。これは日本と朝鮮との国交を振り返っても異例のことだが、このことから、アジア主義とは王道を歩むことと理解できるのではないだろうか。
最後に、本文が大三輪朝兵衛という、近現代史に埋もれた人物の評伝に近い内容になったことをお許し願いたい。

 

( 参考文献・資料

・中村義 他 編『近代日中関係史人名辞典』 東京堂出版、二〇一〇年

・葦津泰國著『大三輪長兵衛の生涯』葦津事務所、平成二〇年

・井上俊男著『日本夜明けの大偉人』私家
・松尾龍之介著『長崎を識らずして江戸を語るなかれ』二〇一一年
・浦辺登著『フォーNet』二〇一五年十一月号)

 

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