昨日まで熱心なギャル・ヤンキー・フェミニストだった人が今日からオタクになったという人を想像してみてほしい。

 

オタクである人といっても何種類あるだろうか?
まずは好きな趣味の動機でオタクである人、次に「気持ち悪いマインドは嫌いだけど文化は好き」という人々、最後に様々な理由で転向し、その結果オタクとなった人々。
今回問題となるのは後者2つ。

 

 

ギャルやヤンキーやフェミニストからオタクに転向した人たちのブログやSNSをぱっと見た感じだと、オタクらしい持っている物質の風景に見えないと思うが、言動やブログのスタイルに注目してほしい。
今時私のような本物のオタクですらドン引きするオタクアピールという事を彼ら彼女らはやっているのだ。


彼ら彼女らの価値観はオタク目線で相当におかしく、理屈よりも感情が優先される傾向にあり違和感があるが。サブカルチャーに対する目線ならば良いが、中には以前の自分自身を否定するあまり「ギャルヤンキーフェミニスト共同体で広まっているステレオタイプなオタク」を賞賛したり、同じくステレオタイプなオタク文化を賞賛していたりと、相当に私の健康に良くない表現がある。

 

彼ら彼女らが乗り回す痛車の装飾や改造部分を想像してほしい。

見て何か気付かないだろうか。
要するにこの「転びギャルヤンキーフェミニスト」達は、普段それまでの自分自身がオタクに対して行っている行為が、そのまま反転して逆方向に向かっているだけなのだ。
オタク文化を語るベクトルも、昔の自分がギャルヤンキーフェミニストがやる方法と全く同じだ。
しかも良く良く調べてみると、彼らの文化知識などに対する解釈も普通のギャルヤンキーフェミニストと違うだけで非常に感情的で根本的な部分が間違っている場合が多い。
なぜこんな事になっているのか。


それは年齢が幼い時の体験が老後まで価値観として固定されやすい人間の特性に原因がある。


こういったギャルやヤンキーやフェミニストの人々が親オタクになった理由は様々だが、だからといってギャル・ヤンキー・フェミニスト的な「マインド」そのものがなくなるわけではない。
 

幼少期から刷り込まれた価値観の結果、彼ら彼女らは論理より感情を重んじるような価値観の人間となってしまっているので、それが一般の人々では受け入れられない価値観だという事がそもそも理解できないのだ。
その結果こういったオタクの人々は、根底に論理より感情的な価値観を持ったまま、転向をしてしまっているというわけだ。
これが彼ら彼女らの中にある「土台」という事になる。


そして、ギャルやヤンキーやフェミニストの矛盾に気づいて転向する事例は非常に「解りやすい」ものだが、実は最初に挙げた2番目のパターンである「オタクのマインドは嫌いだけど文化は好き」という人々も、当然この価値観を土台として持っている。
物心付く前からそう刷り込まれてきたのだから、これは当然の事だ。
ただ、そういった人達はあえて社会問題的な話題に触れようとしなかったり、「そんな事を言っているのは一部の人だけだ」とその場を取り繕おうとするので、大きな問題に直面するまでなかなか表面化する事が無いというだけのことだ。


なかにはコミュニティの外に出て、この価値観がコミュニティ以外では受け入れられないという現実を理解し改める人もいるにはいるのだが、多くの場合問題に気付けずこういった価値観を内に秘めたままの事が多く、「親オタクだから」と油断していると突然とんでもない言動をし始めるという事例が度々問題になっている。


中にはこの厄介な価値観の問題点に気付いている人も稀にいるが、実際のところその見極めというのは実際の人間関係では非常に難しい。
人間である以上、様々な感情が先入観となってしまい、問題のシグナルを見過ごしてしまうからだ。
だから、「ギャルヤンキーフェミニストからオタクに転向した人達は厄介」というわけだ。


実際、何の予備知識も無く彼ら彼女らの厄介な価値観を突然目の当たりにしてしまい、その結果反オタクから突然極端な親オタクになってしまうという事例が、ここ数年ネット上でも若者に限らず良く見かけるようになってきている。