春風 | 文芸部

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気が付くと、俺は河川敷のベンチに腰かけていた。日はもうとっぷり暮れて、辺りは真っ暗闇。川のせせらぎの音だけが響いていた。

 

 

 

「もうすぐですよ、櫻井さん」

 

 

 

ふと隣を見ると、そこには吉川さんが座っていた。普段と違って浴衣を着ていて、手には団扇を持っている。夏祭りに行くときのような、そんな恰好だった。

 

 

 

「あ、ほら」

 

 

 

突如、吉川さんが川の方を指さす。彼女が指さした先には、オレンジや青の綺麗な花火が天高く上がっていた。

 

 

 

 

「綺麗ですね…」

 

 

 

「そうですね…」

 

 

 

彼女は、空高く上がる花火に見入っていた。俺は少しためらいながら、無言でそっと彼女の手を握る。彼女の方も何も言わず握り返してくる。けっこういい雰囲気だよな…なんて考えていたそのときだった。

 

 

 

「フヒヒヒ、ラブラブですねぇ櫻井さん」

 

 

 

男の声がした。見ると、俺の斜め左、10メートルぐらい先に青髭を生やした変な男がウンコ座りをしていた。喪蛾だった。それを見た瞬間、俺はこれまでに経験したことのない、例えようのない激情に襲われた。俺はすくっと立ち上がる。そして、自分でも信じられないぐらいの力で喪蛾の顔面を蹴り飛ばした。

 

 

 

当然だが、喪蛾は仰向けに倒れた。そして動かなくなった。息を切らしながら奴の顔を見ると、血は一滴も出ていなかった。だがその代わり、目、鼻、口、顎、顔の全てがまるで熱で溶けるバターのようにドロドロと崩れ落ち、地面に広がっていた。俺はそれを見てとてつもない恐怖を感じ、一歩、二歩下がり、何を思ったか反射的に吉川さんの方に振り向いた。

 

 

 

彼女は何事もなかったかのようにベンチに座っていた。そして俺の方を見ると、無表情で首をかしげる。この光景を見ながら悲鳴を上げるでもなく、一体何を考えているのかわからない。わからない…わからない…俺は彼女のことが…

 

 

 

「…はっ!」

 

 

 

 

そこで俺は目を覚ます。目の前には見慣れた天井、殺風景ないつもの部屋。窓を見るとカーテンの隙間から日が差し込んでいた。…夢か。嫌な夢だ。

 

 

 

 

だんだんと意識が明瞭になってきたところで、俺は時計を確認する。時刻は正午を回ったばかりだった。…どうしよう?起きようか?起きて昼飯を食うか…でも腹は減ってないし、起きてもすることないしな…やっぱり起きずに寝直そうか…

 

 

 

そんなことを考えていたとき、電話が鳴った。なんだ、こんなときに…無視しようと思ったが、ちらっと画面を見ると、その番号はあいつ、喪蛾のものだった。ゲッ…さっき夢に出てきただけにとても嫌な気分になる。より一層出たくなくて俺は電話を切った。ところが、一分と経たないうちにまた同じ番号から電話がかかってきた。こううるさくては寝たくても寝れやしない。仕方なく俺は電話を取る。

 

 

 

「はい…」

 

 

 

そっけなく応答すると、すぐにあの男の声が返ってきた。

 

 

 

「あ、櫻井さん、どうもこんにちは。ちょっと聞いてくださいよぉ。今朝のことなんですけどねぇ、朝一でいつものパチ屋に並んで、開店と同時に入ったんですよ。でね、大好きな西園寺世界ちゃんの台に座って打ってたら、ぜーんぜん当たんなくて二万も溶けちゃったんですよぉ。ひどくありません?絶対あの店、遠隔やってますよ。あ、ところで櫻井さん。今日の昼飯代ないんで金貸してくれませんか?一万…いや五千でいいんで」

 

 

 

なんなんだこの野郎…人が起きたばっかりのときに二度も電話してきて、金の無心か?ちっ…

 

 

 

「うるっせえ!俺は今寝てんだ!かけてくんな!」

 

 

 

俺はそう怒鳴って電話を切る。同時に喪蛾の番号を着信拒否にした。くそっ…あいつのせいですっかり眠気が覚めてしまった。寝直すのは無理だな…仕方なく、俺は体を起こし、洗面所で顔を洗って居間に座り込んだ。そして大きくため息をつく。

 

 

 

はぁ…どうして俺の周りはこんな奴ばっかりなんだ。朝一でパチンコ、金がなくなったら貸してくれ。ろくに返したこともないくせに。本当、こんなのと友達でいたくない。都合のいいときだけ俺に寄ってきて、利用して、ブログにコメントしてきて、いざ俺が訴えられでもしたら飛んで逃げていくような連中だ。こんなのと友達だと?もううんざりだ。電話もLINEもブロックして、一切の連絡を絶ってやる!喪蛾だけじゃない。佐藤岳も伊藤みどりもバークレーもブーツも、今この瞬間から俺の友達じゃない。全員ブロックだ!ガハハハハ!ざまぁみろ!

 

 

 

俺は携帯に入っているクズどもの番号を片っ端からブロックして回る。もうこいつらとは一切連絡を取らないことに決めた。朱に交われば赤くなるというが、こんな俺を利用してくる連中とズルズル関係を持って、それを続けていたから俺はこうなったんだ。そうだ、みんな奴らのせいなんだ。奴らさえいなければこんなことにはならなかった。奴らと絶交した今、俺はもう奴らの同類ではなくなった。全てから解放されて、俺は本当の俺になれたんだ!

 

 

 

 

…ひとしきり番号をブロックし終えたところで、俺は急に虚しさを感じる。携帯を床に放り出し、寝そべって考えた。…わかっている。いくら番号をブロックしたところで、関係を絶てるわけではないことぐらい。一歩外に出れば喪蛾やその他の連中とばったり道で会うかもしれないし、パチンコ屋で会うかもしれないし、行きつけの美容室やスーパーで会うかもしれない。連絡を取らなかったからといって関係を絶てるわけではないのだ。絶交するといっても、俺が一方的に言ってるだけでは何の意味もないのだ…

 

 

 

 

そこで俺は考えた。整理すると、まず俺はあいつらとは今後一切会いたくない。連絡はもちろん、道路でばったり、行きつけの美容室やスーパーでばったりというのも御免だ。もう金輪際顔を見たくない。俺の前に現れてほしくない。どうすればそれが叶うだろう?

 

 

 

 

そうだ、だったらあいつらが絶対行かないところに移住すればいいんだ。市外に、できればこの県からも出ていけば、もう二度と奴らに会わずに済む。どうせ貧乏人のあいつらの行動圏内なんて、市内がやっとのところなのだから。…けど、俺にできるんだろうか。あいつらと金輪際会いたくないのはやまやまだが、もしそれで遠い土地に行ってしまえば俺は一人だ。土地勘のないところで一人でやっていけるだろうか?やっていけたとして、もし知らない土地で事故や病気になったら?老後は?いろいろ考えると不安になってくる。そう簡単に決められる話じゃないか…

 

 

 

 

…だがこのまま何もしなければ、いつまで経っても前に進めない。とりあえず荷造りから始めてみるか…そう思ってまずは鞄を開けた。すると、貴重品やら役所関係の書類やらに交じって淡い桜色の紙が出てくる。ん…?これ、どこかで見たような…

 

 

 

 

そのメモを見て、俺はハッとする。そこに書かれていたのは、もうしばらく会っていない吉川さんの名前と、その連絡先だった。…そうだ、そういえばあの子に連絡先を教えてもらっていたんだった。そう思い出した瞬間、俺は閃いた。すぐに携帯を拾い、彼女に電話をかける。

 

 

 

「…もしもし」

 

 

 

数回のコール音の後、彼女が電話に出る。よかった、繋がった。

 

 

 

「あ、あの、吉川さん、俺です、櫻井です」

 

 

 

しまった、まずこれが本当に彼女の番号か確認すべきだったか…もしどちら様ですか?なんて聞かれたら恥ずかしいぞ…

 

 

 

「あら、櫻井さんですか?こんにちは、お久しぶりです」

 

 

 

ところが、電話の向こうの相手はすぐに俺の名前を呼んで返事を返してくれる。よかった、別人の番号を渡されたんじゃなくて…

 

 

 

「それでですね、ええと、今日は大事な話があって電話したんです」

 

 

 

「大事な話…?」

 

 

 

俺は意を決して叫んだ。

 

 

 

「あの、吉川さん、俺と駆け落ちしてください!」

 

 

 

そうだ、もう俺にはこれしかないのだ。喪蛾も、佐藤岳も伊藤みどりもバークレーもブーツもいない遠くの県外に俺は行く。だからといって一人で行くのは心もとない。知ってる人間が誰もいない土地に一人で行きたくはなかった。だから彼女と行きたい。新しい地で、新しい生活を、彼女と始めたかった。

 

 

 

「ええと…駆け落ち、ですか?」

 

 

 

わかっている。無茶なお願いをしていることぐらい。それでもここは感情に任せて押し通すしかなかった。

 

 

 

「俺、もう嫌なんです。周りは正直言ってロクでもない奴らばっかりで、俺を利用することしか考えてない。さっきもパチンコで負けて金ないから貸してくれって電話がきたんです。こんなのばっかりです。都合のいいときだけ俺のブログに好き勝手なコメントをして、荒らして…いざ俺が訴えられでもしたら逃げていく。そんな奴らともう会いたくないんですよ。だから遠くに行きたいんです」

 

 

 

「…」

 

 

 

電話口の向こうの吉川さんは黙って俺の言葉を聞いているようだった。俺はさらに畳みかける。

 

 

 

「吉川さんだって、このままでいいとは思ってないでしょう?ただ学校へ行って講義を受けて、同じことの繰り返し。そんな毎日が退屈だって言ってたじゃないですか。どこか遠くに旅に出たいって言ったの覚えてますよ。だったら俺と行きましょうよ。このままじゃ勉強だけして、3年4年になったら就職活動に追われて、そんな未来しか待ってないんですよ?そんな大学生活続けて何になるんです?つまらないでしょう?退屈でしょう?だったらここらでそんな日常といっぺんおさらばしてみましょうよ!何もずっとついてきてくれなんて言いません。半年、1年ぐらいどこかへ逃げて、やっぱり戻りたいと思ったら戻ればいい。大学の勉強だって、就職活動だって今じゃなくても、いつでもできるじゃないですか」

 

 

 

俺はとにかく勢いだけで説得を試みる。このぐらいの勢いで迫れば、相手は女の子なんだから、つられてはいと言ってくれる。そんな期待をしながら。

 

 

 

だが、彼女は何も言わなかった。ただ黙っているだけ。なんの反応もない。やがて俺も言葉が尽きて黙り込む。互いに何も言わず、沈黙が流れる。…やっぱり駄目か?だが、向こうが電話を切るまでは諦めない。粘って粘って、最後には押し勝つ!

 

 

 

そう思ったときだった。不意に、受話器の向こうから「ふっ…」という声がかすかに聞こえた。そして次の瞬間。

 

 

 

「あはははははははは!!!」

 

 

 

かん高い笑い声が受話器からこだまする。ど、どうしたんだ…?

 

 

 

「あの、吉川さん…?」

 

 

 

「ええ、いいですよ。でもその前に、もう春ですから、お花見に行きませんか?」

 

 

 

「お、お花見?」

 

 

 

って、今いいですよって言った?本当に?そんな軽く決めていいのか?

 

 

 

「あの、それより本当にいいんですか?」

 

 

 

「まあ、落ち着いてください櫻井さん。遠くに行くといっても、その前にいろいろやることがあるでしょう?身の回りの整理もしなきゃいけないでしょうし、段取りも決めなくてはいけません。よね?」

 

 

 

「は、はぁ…」

 

 

 

「ですから一度会って話し合いましょう。1週間後ぐらいでいいですか?その間に、お互いやるべきことをやって、それから詳しい段取りを話し合うんです。そうですね、場所はさつき台公園なんかがいいですね。ちょっとお花見でもしながらゆっくり話し合いましょう。具体的にどこに行くかとかはそのときに決めればいいですから」

 

 

 

…確かに彼女の言う通りだ。新しい地で生活を始めるにも、身のみ着のままで行けるわけじゃない。ある程度の身辺整理もしなきゃならないし、第一どこへ行くかも決まっていない。漠然とした話だけしてたってしょうがないもんな…

 

 

 

「…わかりました、それじゃ1週間後にさつき台公園で待っています」

 

 

 

「はい、それじゃ失礼しますね」

 

 

 

通話はそれで終わった。とりあえず了承してもらえたが、これでよかったんだろうか?本当に彼女は俺と来てくれるんだろうか?いいですよと言ってもらえてよかったはずなのに、なぜか釈然としない気持ちだけが残った。