インパール作戦は1944年7月12日に中止されましたが、この頃、他方面での日本軍の敗勢の色は濃くなっていました。

 

1944年7月9日、絶対国防圏を破られてサイパン島を米軍に占領されてしまいました。

これによって、日本本土に直接空爆する事が可能となり、その後、米軍による日本本土への爆撃が本格化していきました。

 

この責任をとって、東条内閣は倒れ、小磯内閣に変わりました。

その事を通告した方面軍参謀にボースは全く動揺の色を見せず、日本との提携関係は不動であると明言しました。

 

8月30日、河辺方面軍司令官は更迭されて内地召喚となりました。

 

別れに訪れた河辺にボースは、東西の戦況がいかに変わろうとも自分の日本と提携して独立を達成しようとする決意は動かぬ事を小磯新首相に伝えて欲しいと頼み、さらにインパール作戦で損傷した兵器の改修を日本軍にお願いしたいと言いました。

 

河辺は出発に当たって一切の儀礼的催しを固辞しましたが、ボースは送別の宴をしました。

そして、病後の河辺の肩には重すぎるくらいの大きな花輪を掛けました。

 

河辺は手強い交渉相手だったボースに、これほどの優しさがあったかと、改めて心を打たれました。

 

 

ボースは1944年10月、ラングーンに帰り、新任の木村兵太郎ビルマ方面軍司令官がビルマ西部を放棄してイワラジ河まで後退して、その線で英印軍の追撃を防衛しようとしている事を知りました。

 

インパール作戦は終わっても英印軍の追撃は終わりません。

英印軍は日本に占領されたビルマを取り返そうと一気に攻勢をかけてきました。

 

ボースはこの作戦計画に協力して新鋭の第二師団を配備しました。

 

ボースは国民軍首脳を集めて説明しました。

「この敗勢にあってなお、日本軍と肩を組み提携を続けることに疑問を持つ向きもあるだろう。しかしいま日本軍を裏切れば、我々は景気の良いときだけ日本軍と手を組んだという誹りを受ける。また武装闘争をあくまでも続ける事が、英印軍に我々の不退転の決意を悟らせ、インド人兵士をイギリスの支配から我々の側に走らせることになる」

 

インパール作戦の失敗はさすがにボースの失望は大きかった。

このころビルマの日本陸軍からボースのソ連行きを勧める話しがありました。

 

インドへの進攻をビルマからでなく、中央アジアのソ連領から行うという話しでした。

ソ連の協力を取り付けこの方面からインド独立工作を断行しようというのです。

 

ボースは賛同しましたが、しかし、日本本国はこの提案に否定的な態度を示しました。

 

 

1944年11月1日、ボースは三回目の東京訪問をしました。

小磯新首相や軍首脳と懇談して、懸案のインド国民軍の兵力増強、武器供給、軍事裁判権問題を煮詰めるためでした。

 

ボースは到着後、精力的な活動を開始しました。

 

3日には日比谷公会堂で催された『ボース閣下大講演会』で演説し、

「自由インド臨時政府は東亜にあるインド人の人的・物的資源を総動員して、日本との共同の戦争目的達成に向かって生死を共にしようとしている」

と強調しました。

 

会場には多数の聴衆が詰めかけ、人々があふれでていました。

演説は休憩なしで2時間も続きました。

 

敗勢で意気上がらぬ日本人たちも、ボースの勇壮な演説に熱狂して、大きな拍手で何度も演説を中断させました。

 

その後日本政府・軍首脳との交渉をしました。

ボースは1944年11月の東京での交渉で日印借款協定締結を提案しました。

 

それまでもボースは日本からの無償援助を謝絶して、政府や国民軍の経費を日本から受け取る場合は、そのたびごとに借用証を発行してきましたが、今度はそれを政府間の正式協定にしようとしたのです。

 

これは日本政府も認め、1億円の借款締結が内定しました。

 

日本側関係者の間では

「ボースはなぜそんな形式的な問題で突っ張っているのか。少々理屈っぽすぎる」

との反発を買いましたが、ボースは真剣でした。

 

彼は独立性の確保こそ何物にも代え難い宝であり、その実現のためにはあらゆる努力を惜しみませんでした。

 

長いインドの植民支配を目の当たりにしてきたボースは、念願のインド独立が達成されてもどこかの国の傀儡になってしまっては意味がないと考えていたと思います。

 

それではただ支配者が変わるだけです。

インド人によるインド人のためのインドを作るには、たとえ形式的であろうと独立性を確保する事が最重要なのです。

 

 

ボースは恩義を忘れぬ人でした。

失脚した東条英機を多忙な時間を割いて私邸を訪れ歓談しました。

 

またビハリ・ボースが重病であることを知ると、病床に駆けつけ励ましました。

ボースは日本に留学させているインド人青年たちのことも忘れませんでした。

 

1944年当時、すでに日本国内の食糧事情は逼迫していて、宿舎の帝国ホテルの食事も、パンは出てもバターはなく、マーガリンひとかけらしか付きませんでした。

 

これではあまりに気の毒と思い、手を回してかなりの量のバター、チーズ、キャラメルなどを寄贈させました。

ボースは訪日期間中、インド人子弟が留学している陸軍士官学校などを視察して留学生らと語りあいました。

 

当時、航空士官学校に在学していた留学生が後年、ネタージの思い出を次のように語っています。

「ネタージの訓示でいまも耳に残っているのは『他の人々のために生きる人間こそ真に生きているのだ』という言葉でした。その言葉は敗戦後、香港で英軍に抑留され、絶望の日々を送っていたときの心の支えになりました。ネタージの訓示は食糧、衣料の不足に苦しみ、東南アジアからきて初めて冬を迎え、防寒具もなく震えている私たちの心を燃えたぎらせました。みな争って一刻も早くビルマ戦線に馳せ参じたいと訴えたのですが、ネタージは『君たちはまだ幼いのだから、落ち着いて勉強しなさい。それがやがて祖国に役立つ日が必ず来る』と諭しました」

 

ボースが来日した1944年11月は既に米軍による日本本土空襲が始まっていました。

しかし、ボースは

「日本は絶対に敗れない。その証拠に銀座にはまだ沢山の人が歩いているではないか。人的資源に余裕のある証拠だ」

と断言しました。

 

 

※参考文献