日本軍司令官は当初、日本軍がインドのインパール占領後、インド国内に進軍する段階になってからインド国民軍を参加させる計画でした。

 

ボースはそれを知ると、1944年1月24日、国民軍を連隊規模で最初から作戦に参加させて欲しい、単なる謀略部隊ではなく、戦闘部隊として処遇して欲しいと要求しました。

 

ボースは27日、第一連隊長のシャ・ヌワーズ・カーン中佐を呼び、彼の連隊が真っ先に実戦に加わるはずだから、全国民軍の模範となるよう、そして日本軍に国民軍の戦闘力を認識させる為、勇敢に戦うよう言い渡しました。

 

シャ・ヌワーズ・カーン中佐は2月10日、日本軍司令官のもとに出頭しました。

司令官は、彼の連隊の任務は日本軍の攻勢正面から英印軍の注意をそらすことにあると述べました。

 

カーンはそのような補助的な役割を受け持たされるよりも、むしろインパール進撃の先陣を務めたいと主張しました。

 

事実、第一連隊は国民軍中、最も訓練の行き届いた精鋭部隊で、規模も各連隊中、最大の3,000人の兵員を持っていました。

 

ボースはラングーンから前線に出動する部隊を全て親しく閲兵しました。

ボースの激励に答え、国民軍将兵は一斉に「チェロ・デリー」と声高く叫び、マンダレーへ進軍しました。

 

ボースはインド進攻作戦が、自分の到着から1年も後になったことに失望しましたが、ともかく「デリー進軍(チェロ・デリー)」の念願が実現したことを喜びました。

 

1944年2月上旬、ボースはマンダレーに近いメイミョーを訪問しました。

 

ボースはそこで牟田口軍司令官と初めて会い言いました。

「インパール作戦の先陣は、ぜひインド国民軍にやらせていただきたい」

「いや、インパール作戦は序の口です。それは日本軍におまかせ下さい。問題はそれからです。わが軍はインパール攻略後、インド国内へ進軍したい。インド国民軍はその先陣をどうぞ」

牟田口軍司令官のこの発言は、明らかにビルマ方面軍の与えた任務、英軍のビルマへの反抗基地であるインパールを占領して、防衛戦を前進させる、いわゆる”攻勢防御”の範囲を逸脱するものでした。

 

上級司令部であるビルマ方面軍の真の作戦目的を知らされていないボースは、わが意を得たりと身を乗り出しました。

「日本軍がインパール攻略に成功し、インド国民軍をアッサム平地に押し出していただければ、インドの民衆はこぞって国民軍に協力するでしょう。やがては英印軍内のインド人将兵も呼応し、反乱の火の手は、全インドに燃え広がることは必至です。日本軍はどうかブラマプトラ河まで進出していただきたいものです」

 

 

1944年3月8日、日本軍の第33師団(呼称「弓」)の山本支隊は、インパールの南方面から突進を開始しました。

「弓」主力も同日、インパール南方のトンザンへ突進を開始しました。

 

この南方面からの攻勢に敵が注意を奪われている隙に、インパールの中央と北から敵の虚をつこうとする作戦です。

3月15日、日本軍の第15師団(呼称「祭」)がインパール正面へ向かい、第31師団(呼称「烈」)はインパール北方のコヒマに向け突進を開始しました。

 

各師団とも険しい山中のジャングルを急進するために、重砲はおろか、野砲まで置き残し、さらに山砲の門数も減らし重機関銃も半分しか携行しませんでした。

 

食糧も20日分しか用意せず、これは3週間でインパールを攻略できる、そうすれば敵の豊富な食糧を利用できるという計算からでした。

 

さすがに日本軍の間でも

「もし、予定どおりインパールを落とせなかったら大変なことになる。5月中旬から雨季が始まり、山中の小道などはたちまち押し流されてしまう。そうなれば補給は途絶し、進攻部隊は食糧も弾薬も尽きたまま山中に孤立するしかない」

と危ぶむ声もありました。

 

作戦地域であるインドとビルマの国境地帯の雨量は世界一で年間8000ミリをこえます。

1日に1000ミリも降ることさえあります。

 

雨は4月から降り始め、最盛期の6月から8月までは現地民が「トラも出歩かない」というほどの、滝のような土砂降りが続きます。

 

ジャングルには至るところに濁流がのたうち、急造の未舗装道路などはあっという間にずたずたになってしまいます。

低地には何メートルもの深さの沼ができ、谷は土砂で埋まります。

 

これは英印軍にとっても大変な悪条件でしたが、彼らはブルドーザーなど機械力で道路を修復出来たのに対し、人力だけがたよりの日本軍は道路の維持すら不可能でした。

 

その結果、前線には何日も1発の弾丸、1粒の米も補給されず、兵は飢えで衰弱した体をむち打って突撃する以外ありませんでした。

 

日本軍は多方面から英印軍に進撃して分断包囲する作戦でした。

 

しかし、分断包囲し退路を断っても、英印軍は少しもへこたれませんでした。

かえって直径数10キロの円形に陣地を固めて、重砲を後方にして、戦車を前面に並べて日本軍の突撃をはねかえす。

 

食糧・弾薬は毎日のように多数の輸送機で空から送られてきました。

日本軍は制空権をまったく失っていたので、英印軍は立体的な円筒陣地で対応出来ました。

 

側面援護を受け持ったスバス連隊の第1・3大隊の正面には西アフリカ第81師団が進出してきました。

初陣に張り切るインド国民軍の士気は高く、戦意に乏しい敵をインド領内に撃退することが出来ました。

 

インパール作戦は初めのうち、順調に進行しているように見えました。

3月13日、「弓」はトンザン北方で英印軍を包囲しました。

しかし、敵の猛反撃の末、3月末に退路を開け放ってしまいました。

 

中央からインパール攻略を目指した「祭」は、3月19日、国境を突破し23日にはインパール東北まで進出しました。

しかし、それより先は、英印軍の猛反撃に阻まれて一歩も進めませんでした。

 

北方からコヒマに向かった「烈」は、3月21日、ウクルルを占領し、4月5日、コヒマの一角に突入しました。

しかし、コヒマの南西に強固な円筒陣地を築いていた英印軍はディマプールからの増援部隊も得て反撃し死闘が続きました。

 

この戦況を知ろうともしない牟田口軍司令官は、コヒマは完全に占領出来たと思い込み、ディマプールへの追撃を命じました。

 

牟田口軍司令官の独走を警戒していた方面軍は直ちに追撃中止の命令を出しました。

 

日本軍は、獣も通らぬジャングルをやっと通り抜けて戦力を消耗した後に、平野部に顔を出したところ、インパール盆地の縁辺に強力な陣地を構築して待ち構えていた英印軍に叩かれて進退きわまってしまうというパターンでした。

 

4月5日、ボースは司令部をメイミョーに前進させるため、ラングーンを出発しました。

戦況は膠着状態に入っていましたが、牟田口軍司令官からは、景気のいい報告しか入ってこなかったので、インパール占領に備えての前進でした。

 

しかし、ボースはメイミョーで司令部の藤原参謀から取材して、インパール作戦の難航を知らされました。

 

また、5月10日、インド本国でガンディーが釈放されたことを知ったボースは、イギリスが対日戦に勝利の目安をつけたからであろうと推測し、河辺方面軍司令官あてにインパール攻略の強行とインド国民軍の増強を改めて強調する電報を発信しました。

 

 

※参考文献