盧溝橋事件をきっかけにして支那事変を拡大させ、日中全面戦争へと発展させた近衛内閣はスターリンやルーズベルトからすると100点満点の内閣だったでしょう。

 

前回のブログでも書いたように日本陸軍は中国と全面戦争する気はなく、むしろ近衛内閣が戦線拡大を煽っていたのが現実でした。

 

日本陸軍の本当の敵は背後にいる中国共産党とソビエトでした。

反共産主義の為に日本陸軍は中国大陸で戦っていたのです。

 

しかし、近衛の側近の共産主義者達の工作によって中国共産党と組んだ中国国民党と全面戦争する羽目になってしまいました。

 

蒋介石は本当は中国共産党とは組みたくなかったのです。

しかし、もし国共合作に応じなければ、自分の命がなくなる状態にまで追い込まれていました。

 

何度も過激派から命を狙われるほど危険な状態に追い込まれていたのです。

 

 

日中全面戦争になってからの日本陸軍はどうだったのでしょうか?

もちろん戦争になったのだから戦うしかありません。

 

もともと日本の朝鮮半島や満州統治はそれなりに上手くいっていました。

地域の近代化に貢献し、この地域を豊かにしました。

 

しかし、それを快く思わないソビエトやアメリカ、中国政府の挑発によって満州の治安が悪化し、日本人が襲撃されることもよくありました。

 

過激派のテロ行為が頻発していたのです。

そして盧溝橋事件をきっかけとして全面戦争になりました。

 

このような経緯で始まった日中戦争を日本の侵略行為と取るのは、あまりに短絡的すぎます。

 

もちろん日本政府や日本陸軍に全く悪いところが無かった、というつもりはありません。

外国に兵を送る事自体かなりリスクのある行動だと思います。

 

下手すると侵略と取られても仕方のない側面はあるかもしれません。

 

しかし、それは今の私達の視点から見て、そう思うという事です。

当時の世界情勢を見ると、欧米列強各国はアジアやアフリカに当然のように植民地を作って現地人を搾取していました。

 

日本以外のまともな独立国はアジアやアフリカには、ほとんどありませんでした。

そんな状況で日本が海外に兵を送っただけで非難されるのは、あまりにフェアでないような気がします。

 

また、日本陸軍は何度も和平の機会をうかがい中国との全面戦争を避ける努力をしてきました。

そして占領した地域では近代化の為に最大限の努力をしていました。

 

 

しかし、近衛内閣が北支派兵を決めた時点で、日本陸軍はその方針に従うしかありません。

 

軍が政府の方針に従うのは当たり前の事です。

なので、日中戦争は日本陸軍が暴走して起きたのでは無く、時の近衛内閣の方針そのものだったのです。

 

参考までに、1937年10月、当時の中国大陸で起こっている事について当時のローマ法王ピオ11世は以下のような声明をだしてます。

 

「日本の行動は、侵略ではない。
日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。
日本は共産主義を排除するために戦っている。
共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」

 

 

日中全面戦争になったのを見届けて、お役御免という事で1939年1月、近衛内閣は総辞職します。

 

しかし、再び近衛文麿の出番がやって来ます。

1939年9月、ドイツのヒトラーがポーランドに侵攻してヨーロッパで戦争が起こりました。

 

ドイツは破竹の勢いでヨーロッパ各国を席巻していきます。

1940年6月にはフランスを陥落させヨーロッパのほとんどの国はドイツに屈服しました。

 

イギリスは1日も早いアメリカの参戦を望んでいましたが、アメリカの世論は反戦でした。

このままいくとドイツはソビエトに侵攻して、ヨーロッパは完全にドイツに支配される状況にまで追い込まれていました。

 

とにかく時間稼ぎと日本を追い込む為に、再び近衛文麿の力が必要になりました。

 

そんな状況のもと1940年7月、第2次近衛内閣が発足しました。

 

近衛内閣は共産主義者や国際金融資本家の手先の思惑のもとアジア方面の紛争は泥沼化させました。

 

次の使命は、どうやってアメリカを参戦させるかです。

その手始めとしてまず、1940年9月、日独伊三国軍事同盟を結びます。

 

この同盟によって日本は完全にアメリカを敵に回してしまい、日米間の緊張は一気に高まりました。

 

 

※参考文献