1937年7月7日に起こった盧溝橋事件は日中戦争の発端と言われます。

 

時の総理大臣の近衛文麿は、この事件が起こって4日後の11日に早々と「北支派兵」を決定します。

 

現地では中国国民党と日本陸軍で停戦協定が結ばれていたにもかかわらずです。

 

もともと、発端となった発砲事件には不明瞭なところが多く、日中ともに現地の指導部は冷静に見ていました。

 

おそらくは過激派の挑発行為であると。

だから、日中双方冷静に対処し、11日には停戦協定が結ばれていたのです。

 

しかし、日本政府の対応はこれとはまったく反対でした。

 

近衛、風見共に事件拡大を期待するかのように強硬論を唱え、新聞記者たちを前にして煽る発言をします。

翌日の朝刊を意識したかのような発言を繰り返し、国民世論を戦線拡大の方に誘導していきます。

 

新聞各社は「強硬論」で世論を煽り支那事変拡大へと誘導していきます。

 

停戦協定が結ばれていた事実は新聞社は一切報じません。

つまり、新聞各社も戦争を煽る側なのです。

 

 

現地の日本陸軍は驚きを隠せません。

当然中国政府も怒り、強硬論に走り始めます。

 

この事件から徐々に中国共産党と中国国民党の抗日統一戦線が作られていきます。

 

慎重に対日宥和的な態度を取ってきた蒋介石も中国共産党と組まざる得ない状況に追い込まれました。

 

もちろん蒋介石も現地の日本陸軍も裏で操っている勢力の目的や意図のおおよその検討はついていました。

 

中国共産党やソビエトが東アジアの共産化の為に紛争を煽っていたのは明白です。

それに近衛内閣の官房長官に登用された風見章が後押しします。

 

 

しかし、世論が一斉に強硬論に染まってしまうと、これを簡単に止めることは出来ません。

 

日本の新聞やラジオ放送を中国側が知って日本政府に対する不信感を募らせます。

日本が強硬論に出れば中国も出ざる得ません。

 

中国側も対日抗戦決意一色となり、この流れは止められなくなりました。

お互い軍備を増強して、中国各地で様々な小競り合いが起こります。

 

この間、作戦部長の石原莞爾少将は北支派兵が決まるや和平にむけて蒋介石との直接会談を提言しました。

しかし、風見はこれに対し、非難し会談の実現の実施を妨害してきました。

 

近衛や風見にとっては目障りな存在でしかない石原莞爾少将は9月には関東軍参謀副長に移り、翌年末には舞鶴要塞司令官へと異動させられます。

 

 

そして1937年8月9日、第二次上海事変が起こります。

 

ここまでくると日中全面戦争の様相を呈してきました。

 

閣議では、米内光政海軍大臣が強硬論を唱え、南京攻略を主張します。

しかし、戦線拡大に反対する杉山元陸軍大臣は対ソ連戦を意識し、慎重論を唱えます。

 

日本政府の陸軍内部でも意見の不一致があり、統一した見解は出ませんでした。

 

そんな中、1938年1月、近衛文麿は「国民政府を相手とせず」と声明を出し、講和の機会を完全に無くしました。

 

もともと日本陸軍にとって、中国国民党は真の敵ではなく、日本と蒋介石の衝突を狙う中国共産党とその背後にいるソビエトが本当の敵でした。

 

しかし、いつの間にか中国国民党と全面戦争する羽目になってしまったのです。

 

ほんとの敵である中国共産党は延安に隠れ、ソビエトは背後から武器や物資の支援をするだけでした。

 

しかも、日本陸軍は中国との全面戦争を回避する為に中国国民党と和平を何度も模索していたのにも関わらず。

 

これのどこが軍部の暴走なのでしょうか?

 

むしろ中国との紛争を煽っているのは近衛内閣で、何度もあった講和の機会をことごとく潰しにかかっていたのです。

 

 

ことの発端は盧溝橋事件を受けて、早々と「北支派兵」を決定したところにあります。

 

まさに中国側に真珠湾奇襲を仕掛けたかのようなダメージを与えたと思います。

 

そもそも近衛内閣は中国との紛争をはじめから抑える気などなく、むしろ紛争を拡大させる事を考えていたと見られても文句は言えないと思います。

 

現地の日本陸軍の方針は無視して、中国側を刺激するような政策を実行してきたのは事実だからです。

 

近衛内閣のこのような姿勢では、現地の日本陸軍や中国国民党もお手上げです。

この後さらに日中間の紛争は泥沼化していきます。

 

 

このような事情を知っていれば、戦後東京裁判で米内光政海軍大臣が戦争責任を全て陸軍に押しつけたのが、誰かからの入知恵であることがおのずと推測がつきます。

 

 

※参考文献