フーバー回顧録の一節です。

 

「ルーズベルトが約束した世界平和の保持という視点からソビエトの行動を見たい。ソビエトはこの面でも約束を破っている。ソビエトは、ポーランド、フィンランド、ラトヴィア、エストニア、リトアニア、ベッサラビアに侵攻した。こうした国からの挑発は一切なかったにもかかわらずである。これらの国のほとんどが民主主義国家だった。しかし、いまでは共産主義に隷属してしまっている。ルーズベルトは、そうした侵略行為を倫理的に許さないとしていたのではなかったか。ところがこの数ヶ月の間、ルーズベルト政権はソビエトに宥和政策を取っている。ロシアに工作機械や航空用燃料を送り、ご機嫌を取っている。これがルーズベルトによる平和のための協力の実態であり、ますますその協力の度合いは高まるに違いない。」

 

 

表面的な事実だけを見ていては本当の歴史を知ることは出来ません。

 

特に第二次世界大戦は情報戦といっていいほど、工作活動が重要でした。

 

ヒトラーがポーランドに侵攻して、ヨーロッパで戦争が始まりました。

アメリカは日本を利用してこの戦争に参戦するのを試みました。

 

そもそもアメリカは、なぜ日本を利用したかというと、ヒトラーは全く挑発に乗ってこなかったからです。

 

大西洋上でアメリカの軍艦はルーズベルト大統領の指示のもと、ドイツ潜水艦を追い回して爆雷攻撃を仕掛けました。

 

しかし、ドイツはまったく反撃せず一切の挑発にのりませんでした。

 

ヒトラーの強力な統制によって現場の将兵に指示が徹底されていたのです。

 

独裁国家ドイツでヒトラーの命令は絶対です。

 

なので、ドイツ軍はいくら挑発されても絶対に反撃しませんでした。

 

アメリカ国内でもこのような挑発行為が露呈していたので国民の反戦の意思は変わりませんでした。

 

そこで新たに目を付けたのが日本です。

 

ドイツと同盟を結んだ日本を経済制裁によって締め上げ、内部から工作を仕掛け「日本に最初の一撃を撃たせる」策略を考えました。

 

 

また、アメリカ国内で日本軍の中国での残虐行為を宣伝するニュース映画や新聞を報じて、アメリカ国民に反日意識を植え付けました。

 

このようなプロパガンダといえる報道をなんども繰り返していました。

 

しかし、実際には日中間の紛争が泥沼化するように煽っていたのは、他ならぬアメリカとソビエトなのです。

 

アメリカ政府の実践スパイ組織OSSは日本軍を攪乱させるため満州でも数々の爆破テロ作戦を実行していました。

 

つまり、今の中東紛争に近い挑発行為は満州事変以来ずっと行われていたのです。

 

紛争が泥沼化するのは、必ず背後で煽っている勢力がいるからです。

 

武器や物資を支援したり、発砲や衝突事件を起こし双方を煽ります。

 

これによってどちらも引くに引けない状況となっていきます。

 

なにか現代社会にも似たような事がどこかの地域で頻繁に起こっているような気がしますが・・・・

 

 

1937年7月盧溝橋事件が起こりました。

これも中国共産党の工作と言われています。

 

停戦中の日支両国兵の中間に夜間入り込んで双方に発砲したことから起こっています。

 

もともと蒋介石は日本をそれほど敵視しておらず、むしろ宥和政策を取ることを主張していました。

 

日支提携を目指した態勢をとり、日本政府もそれに応えようとしていました。

 

しかし、停戦になったり和平が結ばれそうになると、事あるごとに横やりが入ります。

 

抗日テロが起こり交渉を阻害します。

 

国民党政府も中国共産党の陰謀による抗日テロに非常に警戒していましたが、親日支那要人の暗殺が続きます。

 

そんな中での盧溝橋事件の勃発です。

1937年7月7日に事件勃発です。

 

時の日本の総理大臣は近衛文麿でした。

1937年6月に発足したばかりで、なにか近衛内閣の発足を待っていたかのように事件が起こります。

 

そして近衛が官房長官に登用したのが筋金入りの共産主義者の風見章です。

もちろん「朝飯会」のメンバーです。

 

風見章が忠誠を誓っているのはモスクワの共産主義勢力です。

 

とにかく中国国民党との紛争を煽ってソビエトを支援するのが彼の最大の目的でした。

 

近衛と風見は強硬論を主張して中国国民党政府を刺激します。

 

盧溝橋事件勃発後、直ぐに

 

「支那に反省を促すために一大打撃を与えるべき」

 

などと気勢を上げます。

 

7月11日に近衛は「北支派兵」を決定します。

 

中国側は同じ7月11日に謝罪と責任者の処罰、抗日運動の取締強化などの措置を採り、日本陸軍もこれに合意し、事態は一件落着していたにもかかわらずです。

 

本来、この事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずでした。

しかし、このような近衛内閣のあまりに拙速な行動が現地の紛争地域を混乱させます。

 

日本政府のこのような対応では、中国側が怒るのも無理ありません。

 

もちろん現地の日本陸軍も驚きを隠せません。

 

つまり、現地を慌てさせ日本陸軍を煽っていたのは、時の政権の近衛と風見なのです。

 

むしろ日本陸軍の方が穏健派でした。

 

近衛内閣は日中双方の不信感を煽り支那事変を拡大させていったのです。

 

この一連の流れの中で7月8日、中国共産党は抗日全面戦争の必要を強調して、中国共産党は中国国民党に対日統一戦線を迫りました。

 

7月19日、日中全面戦争に極めて慎重だった蔣介石は、「最後の関頭」演説を公表して抗日の決意を表明しましたが、日本軍と妥協しようとする姿勢も崩しませんでした。

 

なので、7月23日、中国共産党は「第二次宣言」を発して、全面抗戦・徹底抗戦の実行を強調しました。

 

そして最終的に9月に国共合作が成立します。

 

 

何か話しが出来すぎているように思います。

 

近衛内閣が発足して、直ぐに盧溝橋事件が起こり、事件から数日後、近衛は早々と「北支派兵」を決定します。

 

現地では停戦協定が結ばれているにも関わらずです。

 

それに呼応するかのように、中国共産党は抗日全面戦争を主張して「国共合作」を蒋介石に迫ります。

 

そして国共合作が成立して日中の紛争は泥沼化していきます。

 

 

よく学校の歴史の授業では

 

「日本陸軍はあまりに残虐だったので、中国国民党は中国共産党と協力して抗日統一戦線を結んだ」

 

という教え方をされますが、実際は異なります。

 

蒋介石の中国国民党は、日本陸軍と停戦して必死に和平の道を模索していたのです。

 

しかし、それを好ましく思わない勢力がいて、妨害してくるのです。

その勢力とは背後から紛争を煽っている人達です。

 

日本陸軍の上層部も早くからソビエトによる日本共産化を警戒し、支那事変の背後には中国共産党とソ連がいると分かっていました。

 

そしてその背後には国際金融資本家がいてアメリカのウォール街とも繋がっていました。

 

実情はこうなのですが、これを日本陸軍の残虐行為などと宣伝するプロパガンダをアメリカ国内でニュース映画として何度も上映されていました。

 

 

戦前の日本は決して独裁国家ではなかったので、工作がしやすかったのです。

 

政権内部にも風見のような紛争を煽る人物が登用され、モスクワと繋がっていました。

 

政権のいたる所にスパイと思われる人物が暗躍し日本を破滅の道へと進めていきました。

 

日本は完全に情報戦に負けていたのです。

 

アメリカ、ソビエトだけでなく、政権内部からの工作によって少しずつ日本は日米開戦へと向かわざる得なくなります。

 

 

 

※参考文献