ナチス党が政権をとったのが1933年です。

 

ヒトラーが政権を取った当初、世界各国は、世界大恐慌の影響で自国のことで精一杯でした。

 

なので、ヒトラーの外交に対しては、それほど強硬姿勢をとっていませんでした。

 

ヒトラーはドイツ周辺地域でドイツ系住民が多く住む地域を自国の領土と認めるように諸外国に要求しましたが、米英仏諸国はある程度ヒトラーの要求を認める姿勢を示していました。

 

1938年9月のミュンヘン会談までは諸外国は一定の譲歩をしながら主に話し合いで外交をしていました。

 

 

ところで、世界恐慌から初めに脱したのは日本と言われます。

高橋是清財政政策が功を奏して、1937年ごろまで日本の経済は絶好調になりました。

 

しかし、国外的には1931年の満州事変から始まる中国との紛争の泥沼にはまり込み、経済で稼いだ資金を軍事費として利用するはめになっていました。

 

中国との紛争は日本にとってのアキレス腱でした。

満州事変自体は日本陸軍の自作自演なのですが、その後、様々ないざこざが満州地域で多発して、もともとどちらが悪いのかよくわからない状況となっていました。

 

ちょっと前のシリア内戦のような状況とイメージしてもらえるとわかりやすいと思います。

 

後日、日本はこの満州事変から始まる中国との紛争から日米戦争に引きずり込まれます。

その背後には国際金融資本家の手先と共産主義者の工作がありました。

 

かれらの執拗なまでの工作に、見事に日本はハマってしまってアメリカと戦争する事になってしまったのです。

 

 

日本の次に世界恐慌から脱出したのが、ドイツでした。

ヒトラーの経済政策がうまくいき失業率が格段に下がりました。

 

これによってヒトラーの支持率がさらに上がり国内はナチス党の独裁体制が一層強化されました。

 

 

それ以外の国は大恐慌の影響が強くあり国内経済の立て直しに奔走している状態でした。

 

1938年のミュンヘン会談までは、紛争になりそうな問題は出来るだけ話し合いで解決しようと努力している期間といえるかもしれません。

 

しかし、このミュンヘン会談を最後に対ドイツ外交は大きく変更されます。

英米両国がヒトラーに対して強硬姿勢に出るのです。

 

この外交方針の転換によって一気に諸外国の対立が進んでいきます。

 

そして1939年8月にドイツ軍のポーランド侵攻が開始され第二次世界大戦が始まります。

 

 

第二次世界大戦とはいったいどんな戦争だったのか?

なんの目的で始まったのか?

 

多くの人たちが現在まで様々な考えを述べています。

 

各国の利害が対立した結果必然的に始まった戦争・・・

ブロック経済が原因で経済的に持てる者と持たざる者との戦い・・・

ヒトラーという独裁者が一方的に諸外国を侵略して起こした戦争・・・

 

どの考えも外れてはいないと思います。

 

しかし、ヨーロッパから遠く離れた日本までが巻き込まれて世界戦争へと発展してしまった事を考えると、もっと核心的なところを見ないと説明出来ないと思います。

 

そこで、あえてわかりやすいように名前を付けるとしたら、

 

 

ヒトラーが世界の支配者に対して起こした反乱 「ヒトラーの乱」 といえるのではないでしょうか?

 

 

そもそもナチス党及びヒトラーは「反ユダヤ主義」「反共産主義」を中心的な思想として掲げていました。

 

しかし、当時の世界で「反ユダヤ主義」はとても危険な思想です。(もちろん現在も危険な思想ですが・・・)

 

なぜなら、当時の世界を支配していたのはアメリカのFRBを支配している国際金融資本家だからです。

 

そしてその中核的な存在がユダヤ系国際金融資本家であるロスチャイルド財閥なのです。

 

つまりヒトラーはかれらを完全に敵にしてしまったのです。

 

また、かれらにしてみれば、ヒトラーとナチスドイツはどんな手段を使っても潰さなければいけない存在になったのです。

 

ヒトラーは誰に対して反乱を起こしたのか?

 

それは世界の支配者に対して反乱を起こしたのです。

だから始めから敗北は決まっていたのです。

 

相手はあまりに強大です。

 

ドイツ軍がいくら強くても敵わないのです。

 

それは、かれらの力は単に軍事力だけでなく、経済力、情報力、工作活動、世界戦略、科学力など、、あらゆる分野において秀でた存在だからです。

 

ヒトラーが世界の支配者に対して反乱を起こした戦争、、、、それが第二次世界大戦であるといえます。

 

その反乱に世界中の国が巻き込まれ多くの犠牲を出してしまった戦争だったといえるのではないでしょうか。

 

 

※参考文献