『鬼平犯科帳』等の

時代劇が好きです。



現代劇は

ドラマの本質より設定や

登場人物の背景が

気になったり、違和感を

感じてしまう事があるのですが



時代劇はそもそも現代社会と

リンクしているものが

人間の心情だけというのが

好きな理由かもしれません。



その時代劇の中で聞くセリフで

『みなまで言うな』と

いうものがあります。



これは現代風に言うと

『全て打ち明けなくていい』


『洗いざらい言葉にして言わなくていい』となり


話す人の意図や話の展開を察して

『大体、わかった』

『理解した』

という意味で用いられています。


また

『それ以上言うと弊害があるから』

と言う気持ちが込められている場合もあります。



この言葉が意味するもの、深さを

この歳になったからなのか

今の時代だからなのか

考える様になりました。



一般的に

挨拶を交わす程度の人であれば

私達はかける言葉や話す内容を

瞬時にフィルターにかけて

言葉にしていると思います。



それは礼儀でもあり

社会で生きていくには必要な

テクニックだとも言えます。



しかし家族や心を許した友人等の

親しい人達や


同じ目標.•目的で集う職場の人達等の仲間には



ついフィルターを通さず言語化

してしまう場合があります。



その理由は

その親しさゆえに

内面をさらけ出してしまう関係だからであり


同じ目標•目的だからこそ

考えを主張し、意見を交わし合い

支えあう関係だからです。



例えば


高揚感•緊張感•絶望感•焦燥感

嫌悪感•罪悪感等の感情が

とても高まった場合に


あまりよく知らない他人に

フィルターを通さず言葉を

かけてしまえば

無礼な人、傲慢な人と批判される

可能性が高いことを私達は知っています。



だからこそ多くの人はそんな時でさえも(多少、フィルターが粗くなっているかもしれませんが)フィルターを通して発言しようとしていると思います。



しかし

自分の身近な人

仲間とも言える関係性の人達への言葉は



フィルターを通さなくても

親しいから理解されるだろう

仲間だから許されるだろうと

考えがちだと思うのです。



実際には
親しい関係•仲間であっても

そのフィルター無しの言葉の為に

元の関係性に戻れなくなる事や

関係自体が壊れてしまう事があります。



今まで繋いだ縁が切れてしまうのです。



私の推測ですが

それは意外と多いのではないでしょうか。



現代は説明責任や自分の態度を明確にすることを求められる社会です。



不透明であることを良しとしないのは社会が成熟した結果かもしれません。



言葉もそんな社会に準じて、明白であること、ハッキリしていることを求めてしまうのは仕方が無いのかもしれません。



けれども

全ての人間は完璧では無いのです。



黒でも白でも表せないものを誰でも持っていると思うのです。




私は信頼関係がある相手ならば


『洗いざらい言葉にして言わなくていい』


と思いますし



親しき仲にも礼儀ありではありませんが


『それ以上言うと弊害があるから』



と思うのです。



『みなまで言うな』というのは、黒と白とのグラデーションの範囲であり、それ以上ハッキリさせて話さなくていいというイメージでしょうか。




これは、とても日本的な感覚かもしれません。




気持ちや意見をハッキリ伝える事で切れる関係なんてそもそも意味が無いという人もいるでしょう。




実のところ、私は縁を切ってはいけない、繋げ続けていくとうことに関しては固執しません。



ただ自分の発したその言葉一つで、今までの自分の歴史の中で繋いだ縁が切れてしまうのが嫌なのです。と言うより怖いのです。



この年齢になると縁というものは本当にタイミングであり、侮れないものだと感じているからかもしれません。




また今までに、パートナーや親族に対して発した言葉に危うさを伴っていたと感じることがあったからかもしれません。



『みなまで言うな』



この言葉を頭の片隅に置いておこうと思っているのです。


※ブログの世界でも『みなまで言うな』と感じることが多々あるような気がしています。

実際私自身が『洗いざらい言葉にしてしまった』ことで、結果として大好きなブログを読めなくなってしまったと感じて後悔しているのです。