昔 昔、小さな村の高い山の峠に小さな茶屋があった。茶屋のまわりには一本の柘植の木とたくさんの椿が植わっていた。その茶屋を志津という一人の若い娘が細腕で取り仕切っていた。

村人はこの茶屋を「椿茶屋」と呼んでいた。この茶屋は昼には旅人や村人に茶を出し、夜には時々宿に困った者を受け入れていた。


志津は色が白く、艶やかな長い黒髪で、同じくらい黒い目が美しい娘であったし、よく働いたので村からも縁談をよく持ち込まれたが、志津が首を縦に振ることはなかった。


「なん、望まれて嫁に行くのは幸せなことぞ」村の世話焼きは来るたびにそう言うが、志津は少し微笑んで「いえいえ、私のような者が行くアテなどございませぬ。それにこの茶屋を切り盛りしていかねばなりませぬ。申し訳ございません…」 深々と頭を下げて志津はいつも断るのだった。


それ以外にも時々、前に泊まったであろう旅の若いものが椿の枝を持ち茶屋に向かうが 一本の柘植の枝を持ち峠を降りてからは一向に村へも来ることは無かった。


ある 風が強く吹き荒ぶ寒い寒い晩。月も消え入りそうな細い影だけを残していて、星だけが懸命に一人の侍に向け輝いているようだった。寒さと疲れで侍は茶屋の明かりに引き寄せられるように戸をたたいた。


「ごめん、一晩の宿を貸してくれぬか。」


ことん。と音がして戸が開いた。志津は戸口に立ち侍を見て言った。


「…お侍様、ここは狭くあまり小綺麗ではございませんよ」


「いや、それより寒さと疲れでこれ以上先は進めぬ、一晩でいいので部屋を貸してくれ」


志津は「ではどうぞ」とイロリまで案内した。こうこうと燃える薪が侍をしばし温める。志津は酒を侍の為に注ぐ。体が暖まる。


よくよく志津を見た侍は志津が美しい娘であることに気付いた。 

「娘、名は?」


「志津と申します」志津は目を伏せ少し微笑んだ顔を見せた。


「志津か 良い名だな。今宵は私だけが客のようだが。」          

「はい、お侍様だけでございます。なんのご用意も出来ませんで 申し訳なく思います」志津は深々と頭を下げた。


「いや、構わぬ。…そうか私だけが客なのだな」  

侍は娘を我が物にしたかった。急に志津の手を引くと抱き寄せた。


が、刹那。


ばったりと侍は意識を失った。          

侍は薄らぐ意識の中、志津の淋しそうな そうでないような、曖昧な微笑みを見た