東京スカイツリーの真下にある駅から、東武鉄道で北へ30分。埼玉は草加市にある「谷塚駅」からしばらく歩くと、「浅井製作所」がある。創業およそ半世紀になるネジ屋だ。
コンビニほどの広さの工場に、昭和40年代に買った生産機械が20台ほど。ガチャンガチャン、ガチャガチャ、タッタッタ……。それぞれの機械からでる音が絡み合う。不協和音どころか、ものづくりのロマンを奏でて、何とも心地よい。
機械から出てくるのは、ちいさなネジ。朝8時から夜6時までフル生産すれば、1日でおよそ40万~50万個できてくる。
窓ガラスから工場のなかは、丸見え。「のぞき見大歓迎」の開かれた工場だ。昭和の風が吹く町工場は貴重で、テレビドラマや映画の撮影でときどき使われている。
工場のすぐ横に、ちいさなスペース。ここが事務所。パソコンには、つぎつぎに注文がはいってくる。めっちゃちっこいのなど、変わり種のネジの注文だ。
パソコンの画面を見ていた男が、やおら立ち上がって、工場へ。一台一台、機械の調子をチェックする。そして、またパソコンの前へ。ものづくり仲間との情報交換、ホームページの更新などに精をだし、そしてまた工場へ。行ったり来たりしている。
この男が、社長の浅井英夫、47歳。ほかの従業員は、見あたらない。たったひとりで切り盛りしている。
世間にありふれた形で町工場を継いだ二代目は、ピンチを不屈の精神で乗り越えてきた。
夕方5時半を過ぎ、浅井は機械を止めた。きょうの操業は終了だ。
おや、浅井が2階に上がっていくぞ。ついていこう。
そこは自宅だった。台所に行って、冷蔵庫を開けた。きっと、ビールでも飲んでひと息つくんだろう……、ちがった。野菜などを出して、業者から毎日届けてもらっている食材も手にして、つぶやいるぞ。
「よし、今日は肉じゃがをつくろう。足りないものはーっと」
そして、近所のスーパーに向かった。
浅井は、ごくふつうに結婚し、ごく普通の家庭をつくりました。そのつもりでした。でも、行き違いがあって、ちょっと事情が変わってしまったのでした。
そうです。ネジ屋の2代目はシングルファーザーなのです。今回はその軌跡と日常を描きたいと思います。
◇
浅井は、妹がふたりの長男だった。物心がついたころ、工場は、創業した父と母たち3~4人でまわしていた。
両親の背中をみて育った。小学3年か4年の七夕のたんざくに、浅井は何のためらいもなく、こう書いた。
「ぼくはネジ屋になる」
勉強はできた。「家庭科4、あとはすべて5」といった成績だった。運動も得意。なので、小学校では一目おかれる存在だった。見えっ張りな少年になっていった。
中学は、一学年8クラスというマンモス中学だった。浅井は、学校での注目度がガタ落ちしているのを感じる日々を送った。けっこう強かった卓球部でエースとして活躍したけれど、焼け石に水だった。
勉強の方はというと、真面目にしなかった。
〈ぼくはネジ屋を継ぐんだから、高校には行かない。勉強しても意味がないからね〉
2年のとき、その決意を両親に話すと、「高校には行け」と厳命された。
3年になって、必死に受験勉強した。見えっ張りの男なので、高校に行くとなれば「さすが」とみんなから思われる学校に行きたかったのだ。
地域の進学校に合格した。大学に行くつもりはなかったので、卓球部だけの高校生活を送った。
見えっ張り男の本領が、ここでまた発揮される。
テレビなどで卓球の試合を見たことがあるだろう。パシッとスマッシュが決まる光景は、爽快ではある。ただ、ラリーが続かないと面白くない。
浅井が選んだプレー?スタイル、それは、「カットマン」だった。卓球台から5~6メートル離れ、相手からのスマッシュを見事に受け、フワーッと相手に返す。そのとき、球に微妙な回転をかける。ひたすら守りきって、相手のミスを誘う戦法だ。
観戦者からみれば、カットマンは派手で、曲芸師(これは失敬!)、神業の持ち主にみえる。見えっ張りにぴったりの戦法である。
キャプテンだった3年の埼玉県大会では、チームをベスト8に導いた。
◇
高校を卒業して家業に入った。
最初の2年間は、とてつもなく苦痛な日々だった。ネジのことを知らないから、何もさせてくれない。させてくれることは、機械に油をさす、配達に行く、くらいのこと。〈こんなはずじゃなかった!〉
一日中、会社の中を、うろうろする。いすに座ってしまうと、退屈で居眠りしそう。時間が来て工場から解放されたい。しょっちゅう時計を見ては、思った。〈早く夕方6時になれ〉
3年目に入って、機械を扱わせてもらえるようになった。任されることが増えていくにつれ、心が充実していった。
30歳をすぎたころ、肺炎で父親が2週間ほど入院した。その間、機械を動かし、事務もし、カネ勘定もする。浅井は、後継ぎとしての責任感が満ちあふれてくるのを感じた。1997年の夏、社長をついだ。
世の中は、ジャスト?イン?タイムのオンパレード、「在庫は悪」とさえ言われる時代である。一方、浅井の会社は、一個1円を切るネジを1日に何十万個もつくる大量生産の工場だ。注文はじり貧になっていった。
すがる思いで、直径1ミリほどのネジをつくっているとの広告を業界新聞にだすと、大阪のネジ商社が目をかけてくれた。いまも、ありがたいお客さんだ。
もうひとつ、浅井がすがったものが、インターネットだった。2001年、地元の商工会議所の手助けを借りて、ホームページをつくった。
さあ、注文は何十万本くるかなあ。大きなメーカーから、直接注文がきたらいいなあ。
だが、来る注文は十本、百本単位、多くても1千本単位だった。〈この程度か。残念だ〉
ただし、客からの特注ネジだったので、しっかり代金をとることができた。
このコツコツ注文にていねいに対応したのが、大きかった。