こんにちは。
ぶどうさんです。
ご訪問ありがとうございます。
久しぶりにブログに戻ったら、素敵なブログが一つ消えていました。
楽しみに拝読していたので、寂しくなりました。
お元気で、またどこかでお会いしたいです。
おなじみの方々はお元気に活躍されていて、うれしかったです。
またお邪魔しますね。
本日うらしまたろこのお話です。
2か月近くブログを休んだぶどうさん。
2009年からボチボチしかやってないので、2か月なんて大したことはないが。
忙しさをすり抜けつつあるこのごろ、急にぽっかり感を抱き、再び戻ってきた。
どこにでもいる、引きこもりアラカンのおばちゃん話題なので突っ込んだ内容は書いてこなかったが、案外ストレス解消にはなっていたらしい。
ゆるく長く続けていくことにした。
2か月という短い間にしては世の中にいろんな変化はあり、浦島太郎子を実感した。
もしかしたら人生が急速に変わる期間だったのかもしれない。
浦島太郎がそんな物語だったかは定かでないが、置かれた現実と意識や認識の変容においては同じ・・かも?
物語では太郎の行動をきっかけに新しい世界を体験し、再び元の世界の戻ってみたもののそこは全くの別世界であり、そこを放棄するかのような選択をする・・・となっている。
前半はまあいいとして、後半の、別世界に戻った後に同じ選択をしたくはないが。
アラカンになっても新しい世界は体験するべきだし、違ったと思えば辞めるなり引き返せばいいだけなのだから。
今日が一番若い日。
人間は今しか生きることはできず、過去を抱えながらも未来をうかがい知ることはできない。
何が正解で、なにが間違いか。
どれが成功で、失敗か。
勝ち負けなんて目先のことで、長い人生でみれば勝敗は変わってくる。
結果がわかるのは、死んでから。
そして、死んだらもう、それらの意味はない。
長生きしすぎれば悼む人はいなくなるだろう。
死んだときに友や悲しむ人を数えることさえ、人生の価値づけにはならない。
人生の価値を決めるのは他人ではない。自分だけだ。
どれだけ人生楽しんだか、どれだけたくさん面白がったか、めいっぱい喜べたか。
人間だから、怒っても泣いても悔しがってもいい。
それでも最後に笑うことができればいいのだから。
失意の中で生きるのは苦しく、悲しく、自分も周りも幸せではない。
だから小さな喜びを見つける才能を磨き、心を柔らかく保ちたい。
浦島太郎はどんな気持ちで玉手箱を開けたのか、結末は本当にそれだったのかはわからない。
案外しぶとくやりて爺として生きていたりして。
不意のタイミングで新しい世界に突入することは、この先いくらでもあるはずだ。
浦島太郎子になっても、あっと驚く面白い選択ができるよう、日々たおやかに生きていきたいぶどうであった。