こんにちは。
ぶどうさんです。
ご訪問ありがとうございます。
毎年夏のおわりに梨をたのしみます。
天候がおかしかったせいか、幸水豊水のあと、あきづきに巡り合わず。
もう新高に変わってました・・。
ああ、残念。
晩秋の梨はまだあるので、是非みなさまも見つけて試されてくださいませ。
本日ピアノを弾くことのお話です。
50半ばにピアノを再開して2年のぶどうさん。
再開する前と、再開してからのピアノを弾く意味が変わってきているのに気が付いた。
ブランクの時は、ふたたびピアノを弾くつもりはなかった。
ピアノは捨てようとしていたくらいだったから。
捨てる気になったのは、永遠に弾かないし邪魔だからだ。
ピアノさえなければ住む家は限定されないし、結構広く使える。
亡父から買ってもらったピアノであったため夫が反対し、捨てるには至らなかったが。
(結果的に捨てなくてよかった)
子供の頃も、大人になって始めた後も、もともとピアノが嫌いで辞めたわけではない。
子供の頃、ピアノの練習は好きではなかったが、そもそも弾ける場所にピアノがなかった。
なんでそんなところにピアノを置いたの、ってところにあったのだ。
いい訳だけど。
また、違う音楽活動に忙しくなってしまったのもある。
結局ピアノは上達せず初歩の初歩で終わったが、ピアノが好きだったのか音楽が好きだったのか、大人になってからその続きを始めた。
けれど結局やめてしまった。
ピアノが嫌になったわけではなく人間関係に嫌気がさしたからだ。
今思えば、素直に折れてそんなのスルーしてしまえばよかったが、人として譲れない部分があった。
くだらない意地である。
それまでの努力をあっさり放棄し、ピアノはやめた。
それ以来ピアノの蓋を開けたり鍵盤に触れることはなかった。
(引っ越しのときの確認はしたけど)
若い頃のあの15年ほどを棒に振ってしまったのは、本当にもったいなかったと思う。
若く体力があり時間の価値が濃い時期であったのに。
それでも、後悔ほどはしていない。
心が回復するまでに時間がかかったし、また歩き出せたのだから。
一体ピアノを弾くことって何だろうと考えることがある。
もう50台、これから先いくら練習したと言えど、決して弾けない曲はあるだろう。
それどころか生涯弾ける曲は、他人に比べたらずっと少ないはず。
希望溢れる、というわけではない。
それに、よくよく考えてみたら、ピアノを弾くことが好きというより、ピアノが好き、なのだと自覚した。
そう、ピアノ。
ピアノという楽器と、それからでる音がすきなだけだ。
ピアノを使って、つたないながら心の歌を歌えたら素敵だなあと思うようになった。
そのための修行として、ピアノの練習を頑張っているというか。
もとが怠惰なので、ピアノに生活を引き締めてもらっているといえる。
3年目時点で気づいた、ピアノを弾く意味はこんなところだ。
え?なんでこんなこと書いてるのって?
きっかけは、素敵なブロガーさんやユーチューバーさんがアルゲリッチさんの話題を出していたから。
ぶどうさんは不勉強なためアルゲリッチさんの物語や功績、人となりは存じ上げない。
それによると、世紀の天才ピアニストは、楽器に合わせて自分の音を出せるとか。
そんな天才はピアノを弾くということをどう捉えているんだろう。
凡人には知りえないことである。
アルゲリッチさんといえば、舞台に出て、サッと座ってパッと演奏を始める切り替えの早さと恐ろしい集中力。
天性とはこのことだろうか。
アルゲリッチさんだけでなく、多くのピアニスト、ピアノ好きな方たちは弾くことの喜び(苦しさも)知っている気がしてならない。
それは・・・・自分にはないような気がして、改めてピアノを弾く意味を考えてしまった。
今ピアノを趣味にしている人は増えている。
続ける理由は、人によって違うし、それでいいと思う。
同じでなくていいのだ。
ぶどうさんは、もう何者でもないし何者にもなれないのだから、ピアノを弾くことを人生の目的や目標にする必要はない。
頭では理解するものの、大切な時間やお金を使ってするのだ。
ピアノを弾くことで味わう何かを見つけることができれば、それが喜びであればまたうれしと前向きに考えよう。
50台はまだまだ若い。
いつかもっと年をとって。
10年、20年先に成長した自分を感じられるようになるといいなと思うぶどうであった。