こんにちは。
ぶどうさんです。
ご訪問ありがとうございます。
スーパーで焼き芋のにおいに誘われてしまいました。
おなかと心が温まりそうです。
寒さに負けずお元気にお過ごしくださいませ。
本日、だれのため?のお話です。
久しぶりに電車に乗ってお出かけしたぶどうさん。
1年ほどお休みしていた習い事が、師走限定で開かれることになったためだ。
進歩せずとも細く長く続けている習い事は、仲間と細く長く付き合っていける。
ほどよい距離感が心地いいし、一緒に年をとっていけることは素敵だと思う。
出会ったときは若かったが、同じように年をとり、みな50~60台半ば。
それぞれに老親がいて、そのサポートをしている。
同居している人、別居ながら定期的にサポートしている人、スタイルは様々だ。
老親は80~90歳超。
その親に対し、皆口をそろえたのが「近頃の老人は、元気で元気で」。
そのセリフをきいて、2,3日前に見たネットの記事がふと思い起こされた。
「70台が90台を見る老々介護が現実化」
「今の年寄り世代は子供が見てくれるのが当たり前と思っている」
確かにぶどうさんの周りでも、その現実はあるようだ。
そして、疑問が湧いた。
なぜに親の世代は自分の老い先を準備していないのだろうと。
全部が全部ではないとは思う。
それというのも、子供がいても遠方にいてもう帰ってこない場合は、子供はあてにできないと準備している人たちを知っているから。
でも子供がいる大多数の人は、何とかなると考えているのだろうか。
そうでなければ親の世話や介護問題に頭を悩ます人が社会で問題になるほどいるわけがない。
互いに目を背けてきた結果、であるのかもしれないが。
子供がいない場合は、独身であれ、既婚者であれ、何とかなると考える人の方が少ないだろう。
ぶどうさんちも、そう。
いずれどちらかが先立ち、一人になったとき、どうするか。
自動的には何とかならないから、60過ぎたらより具体的に考えるつもりだ。
その一環で、終の棲家探しをしているのである。
年をとっても自立して暮せる家、少々他人様のお世話にならねばならなくなった時でもやっていける家、を探しているのである。
そんなぶどうさん夫婦だが、身近に伏兵がいたのに気が付かなかった。
夫の母親だ。
遠方の田舎で一人暮らしをしている。
夫やその兄弟の定年はまだまだ先だから、母親が一人暮らしができなくなったら施設にお願いするしかない。
そのことは、兄弟間、親子間で共有している。
と、思っていたのだが・・・。
夫が帰省した際、今後のことを話したとき、母親のありえない返答に困惑したらしい。
ありえない返答とは、
「入る施設はなんぼでもある。」
こう書くと、施設に入る覚悟はあるんだし、まあいいんじゃ?となるかもしれない。
しかし、施設の違いもわからずに何を言う?
お金のあるなしだけでなく、本人の条件によって入れる施設は違うのだ。
どこに、なんぼでもあるのか。
入りたい、入れそうな施設を探してからの、そのセリフではないか?
ということで、本人は全然なにも考えていないことが最近発覚した。
そもそも、本人はいたって元気かつ親の面倒なんて見たことがないので、老いたときのことや介護制度のことなど全くわかっていない。
そういう人は、自分の未来や老い先、後じまいとか、思い浮かばないのだということが今頃わかったのである。
つまり、丸投げするつもりね。
元気なんだし、ウロウロできてるんだから施設見学して、いいなと思うところを見つければといいのに。
それは子供のためではなく、自分のためなんだし。
だれかがなんとかしてくれると他力本願で乗り越えようとしては、結果不満しかないだろうに・・・。
一事が万事この調子で、困ったら何とかしてもらおうという態度で年齢を重ねるのはとても残念だ。
親子ともども不幸なことだと思う。
親のことは、親自身が決めるべきだ。
子供は子供自身の人生を生き、親が困ったときにサポートすればいいのだ。
全部が全部背負う必要はない。
若い内から老後のことばかり考えるのはどうかと思うので、ある一定の年齢になったら身の振り方を真剣に考えればいい。
老いも若きも。みんながみんな自分の人生を生き切れる世の中になればいいなと思うぶどうであった。