こんにちは。

 

ぶどうさんです。

 

ご訪問ありがとうございます。

 

新緑がまぶしいです。

 

今の時期はエネルギーに満ちていますね。

 

身近な緑の力を借りて、お元気にお過ごしください。

 

本日、いろんな立場のお話です。

 

 

4ヶ月前にスマホデビューを果たしたぶどうさん。

 

Lineにより親友との距離がぐっと縮まり、日常的にたわいもない話題で盛り上がるようになった。

 

同郷の、学校時代からの友人なので、これまでのことはお互いに知っているし、率直にいろんな話ができる。

 

いい大人だから遠慮する部分はあるけれど、つい、本音で話してしまう。

 

終の棲家探しで戸建てを考えていることも、すでに話している。

 

ただ最近、少し考えが変わってきたことは伝えてなかった。

 

変化した理由は、離れて暮らす老親の面倒をどうするか、と悩み始めたからだ。

 

今いるところは縁もゆかりもない土地だが、故郷に似た田舎で且つわりかし便利なので、終の棲家の場所としては悪くないと考えていた。

 

しかし、転勤族なので完全リタイアまでここにいられる保証はない。

 

それならもう少し先がいいかもしれないと思ったのだ。

 

さらに、夫の母親が一人暮らししており、10年後にはどうなるのかわからない。

 

今は故郷には帰らないと言っている夫だが、そうなると帰ると言い出すだろう。

 

夫の実家まで車だと早くとも4時間はかかるので、しょっちゅう行き来するには体力的にも金銭的にも大変な負担になる。

 

それなら、夫の実家に近くもなく遠くもないところに家を構えたほうがいいのではないかと思うのだ。

 

でも、それはぶどうさん的には全然ハッピーではない。

 

なぜなら、今いるところよりとんでもなく不便で、気候はきびしく、まさに縁もゆかりもない土地に死ぬまでいなきゃいけないから。

 

ギリギリの妥協案だ。

 

たまたまはなしの流れで親友にそのことを伝えたところ、予期せぬ答えが返ってきた。

 

「同じ西の国なんだし、なんかあったらすぐ駆け付けられるんだからどこでもいいのでは。」

 

そして、親と遠くなはれて暮らす彼女らしい意見を言った。

 

「飛行機も電車も夜中は動いてないから」

 

そこで彼女は目的地についたらしく、じゃあね、ということでLineは終わった。

 

正直でやさしい彼女のこと、なんの悪気もない、そして励ましの意味を込めたその言ではあったが、すごくモヤモヤした。

 

すぐさま、それは違うと書こうかな、と思ったが、やめた。

 

やめた理由は、人によって見方や立ち位置が違うのが分かっているからだ。

 

彼女は、遠くに住む一人暮らしの親を常に心配していて、何かあってもすぐには駆け付けられないことを危惧していた。

 

夜中に連絡が入っても、飛行機か新幹線を使わねばいけない距離なので朝を待つしかない。

 

だからぶどうさんちと同じ西の国なら車でいつでもいける距離だし、どこでもいいんじゃないとなったのである。

 

一方で、同じ西の国とはいえ車で4時間超かかる場所の介護は、非常に大変だ。

 

車で、なので公共の交通機関を使うともっともっと時間がかかる。

 

車しかつかえないと言っていい。

 

10年近く前に夫の父親が入院したとき、夫はなくなるまでの数ヶ月間毎週のように故郷に戻った。

 

お金がかかったのもあるが、印象に残った出来事が夜中の呼び出しであった。

 

なくなる1週間前くらいで、その一度きりだからとやかく言うものではないが。

 

金曜日の夜中だったかで、夫は毎週の見舞いに疲れていたうえ仕事を終えて就寝する頃であった。

 

そんな状態の、真夜中の呼び出し(危篤とかではなく、父親の)。

 

疲れた体で親を心配しながら、真っ暗な山道を真夜中に車を飛ばさなきゃならない不安。

 

ぶどうさんは翌日始発電車で帰省予定(実親の様子見)にしており、駅行きのバスがないため送ってもらう予定であったが、仕方なく真っ暗な人気ない道を30分近く歩いて行った。

 

そんなことがあったので、もし将来たびたび親による呼び出しがあれば、大変だ。

 

ぶどうさんちのような中長距離に親と離れて暮らす場合は、普段はさほど問題なくいられるけれど、何かあったときに問題が出てくる。

 

遠距離と、中長距離。

 

でももっと言うと、近距離でも違った問題が出てくる。

 

近くにいると、しょっちゅう顔を見ることができるけど、裏を返せば何かにつけ呼び出しがかかるのである。

 

それは、親が自宅で暮らす場合だけでなく、施設に入った場合も同じだ。

 

施設側から「ご家族で対応願います」と連絡が入ることになる。

 

ぶどうさんのお母さんは、ぶどうさんの故郷の施設に暮らしている。

 

遠く離れているのでなかなか会いに行けない。

 

でも離れているおかげで、施設の方はとてもよくしてくださる。

 

安心してお任せできるところで本当に良かったと思う一方で、近いといろんな面で大変なのかもしれないと思う。

 

親を呼び寄せて近くの施設に入れた友人がその大変さを語ってくれたので、施設によるのかもしれないが、近い故の良さと大変さがあるのだろう。

 

そうなると。

 

近いから、遠いから、なんて親の介護に関しては意味はないし、それぞれの事情と立場で違う苦労があるのだろう。

 

彼女の苦しみをもとにしてでた言葉は違和感でしかなかったが、他方住む場所と老親との関係を考えるいい機会となった。

 

いつもありがとう。

 

人生100年時代。

 

これからますます親の老後のこと、自身の老いやその後に向き合わざるを得ない人が増えていくだろう。

 

自分の人生は最後まで自分で見る予定のぶどうさんち。

 

そう考えると、親は面倒見なきゃなんて、おかしい。

 

親は親でしっかり考えるべきだし、それが当たり前なのに、勝手に「できないもの、弱いもの」にしていた。

 

まずは自分の思考を正さなければと思う。

 

老々介護やヤングケアラー問題が表面化してきた日本。

 

だれしも年をとるし、何らかの形で親の面倒をみるだろうことになるのは必然ではあるが。

 

日本中の長生きする予定の人々は、子、親の立場それぞれで、自立した人間としてどうあるべきかを考えていかねばならないと思う。

 

個人の意識と努力だけでなく、長生きしても自立していける社会の仕組みができるといいなと願うぶどうであった。