日頃からカップ麺の買い置きをしていなかったぶどうさんち。
地震のとき、カップ麺は殆ど家になかった。
買い置きをやめた理由は、「買うときには食べるかも」と思ってセール品を買うのだけど、賞味期限すぎても食べずにそのまま・・・というのが続いたから。
それなら食べるであろうときにスーパーに行って、適当に食べてみたいものを買えばいいのでは、というふうに気持ちをかえることにした。
少々高くはつくけれど、そうすれば安売り商品を見つけたときに買って賞味期限切れってことにならないし、新商品を試せるほうが楽しいから。
・・安売り定番品を定価で買わざるをえなかったら、ちょっと悔しいけどね。
けれど、今はいくつかは置くことにしている。
非常用だ。
まさか本当にカップ麺が非常食になる日がくるなんて考えたことさえなかったけれど、3月の地震のときあまりの寒さと燃料類の乏しさに、お湯を沸かすだけというインスタントものを少々は用意しておかなきゃならないと考えたためである。
かといって、地震後すぐに買ったかというと否。
今納戸部屋においてあるカップ麺は、購入した2つを除いて皆もらい物。
夫の会社からの配給だったり、兄弟から荷物のついでに送られてきたもの。
それらが来月中旬にいっせいに賞味期限を迎える。
これは由々しき問題である。
なぜなら、ぶどうさんちの場合2人家族なので、一人1つずつ食べても6つあれば3回は食べなきゃならない。
そして食べてしまったら・・・また同じだけ買いなおすか?と考えると、どうだろう・・・という気持ちが強い。
買いなおせば、また数ヵ月後に賞味期限が来る。
また食べて買いなおす、の繰り返し。
今でこそカップ麺は自由に手に入るし、価格も地震後よりは下がった。
だから買いなおすのは簡単だけど、年単位でなく数ヶ月単位の日持ちしない商品を、そして日頃は食べないものを非常時が起こるかもという理由で買わねばならないのだろうか。
言い方が悪いのでもうちょっと言い換えると、もっと持ちのよいもので日常食べても体にいいもので、長いスパンでゆっくり買い換えられるようなこの手の商品ってできないもんだろうか。
備蓄は必要。
各人が自分と家族が救助の来るまでの数日~一ヶ月くらい生き延びられるよう、備蓄しておくことは大切なことであり義務であると、この地震で痛感した。
自分の命を守るだけでなく、他人の権利や命を守ることにもなるからだ。
それぞれが備えていれば、誰かをみんなで助けることが出来るのだから。
先の記事の賞味期限の切れたカレーヌードルでも触れたが、あの頃いっせいに品薄になったカップ麺はきちんと消費されたのだろうか。
そしてまた新しく買いなおされているのだろうか、それとも違うものが備蓄品として選ばれ保管されているのだろうか。
地震から4ヶ月以上たった今でもいまだ非常時のままの人もいれば、日常に戻ってしまった人もいる。
それでももう地震が起こる前の感覚に戻る人は、この日本にはいないだろう。
電池や懐中電灯、LEDライトの販売の伸びと長期保存パンの人気。
非常持ち出し袋が企業への来場プレゼントになったりする不思議。
こういうのを見聞きするだけで、潜在化した不安や危機感が世の中に蔓延している気がするし、実際今でも余震が続き原発禍はながびき、その上に国内外の政情不安。
冷静に考えれば火山と地震の巣窟のこの日本に安全なところなんてないし、いつでもどこでも災害は起こりうることであり、残念ながら人間にはコントロールする術はない。
だからこそ備えあれば憂いなし。
もうすぐカップ麺の賞味期限が一斉にやってくる。
もらったカップ麺には、アレルギー体質の夫が食べられないものが半分くらいある。
よって、ぶどうさんのおなか行き決定。
さっさと食べてしまって片付けたい反面、まだカップ麺の代わりが見つからない&賞味期限が切れる前に食べれば短いスパンで買いなおしと消費をつづけねばならなくなってしまうゆえ、やっぱり賞味期限まで待ちたい気持ちは残る。
どうしようか、カップ麺。
食べ盛りの子供がいる5人家族のおかあさんの、
「カップ麺なんてみんなで食べればあっという間になくなる」という言葉を羨ましくも複雑な思いで耳をかたむけたのを思い出す。
我が家の数のカップ麺なんてあっという間になくなるだろうけど、5人いるなら5個ずついろいろ買わなきゃならんってのも大変だよなあ・・・・
必要数が多くて保管場所に困るし、かといって非常時には一家族にカップ麺を5個も売らなかったから調達は難しいだろうし。
家族が少なければ少ないの、多ければ多いの、悩みってあるもんだ。
カップ麺の買いなおしごときで、考えることが山盛り。
非常時なんて未来永劫来ないことを祈るぶどうであった。