基本に立ち返って、基本的な料理を基本の味付けで作れるようになろうと意図したぶどうさん。


基本をマスターするために指南書として選んだのが、基本的な料理の味付けを各種記した本。


その手の本に忠実に作ることで、万人が好む、おいしい料理がマスターでき、いずれは料理上手になれるだろうと思っていたが、すぐにその計画の変更を余儀なくされてしまった。


変更の理由は、食べて口に合わない、体に合わないこと。

もっというと、見た目もどうかと・・・・


ぶどうさんは、味が濃すぎるものを好まない。

そういったものを食べると、食べるとき辛いし、食後にものすごく喉が渇き喉が変な感じになる。


見た目も、なるべく食材の色がわかりやすいもののほうが好きだし、そのほうが上品に見えるから、こってり濃い色のものはB級グルメ品以外はおよびでない。

うちでの料理は、上品なお料理にしたいのだから。


何が悪かったのだろう?


原因はしばらくすると見えてきた。


まず、調味料が多すぎたこと。

どうもぶどうさんの場合、指定の2/3~1/2の調味料でよかったようだ。


次に出汁を使わないで食材の味だけで作る料理だったこと。

そのためか、調味料の量が多く、反対に調味料が少なければ間抜けた味になってしまったこと。


そして一番の大きな原因は、一つの惣菜において一人前と認識している量の問題だと気がついた。

ぶどうさんは今まですべてのおかずを、薄味でそのままバリバリと沢山食べられるように味付けしてきた。

けれど、普通は小鉢や器に濃い味付けのものを、ごはんとともに食べられるようちょっぴりの量しか供さないことに気がついたのだ。


一人前の食事が写真に載っているのを見るたびに、あまりの量の少なさに不思議に思っていたが、今に至ってやっとその理由がわかったのだ。


ぶどさん、食べすぎ食べさせすぎだったんだねーー


もうこの本を参考にするのはやめようと思ったが、別の日に未練がましく再び同じ本からお料理を作ることにした。


・・・・すると。


夫曰く、「これ、うまーい」


???


何でなのか、さっぱりわからないが、おいしいらしい。


私も食べてみたが、味付けが濃いものの、まずくはない。

それから何種類か作ってみて、なぜはじめのほうがおいしくなくて後からおいしかったかがわかった。



最初に作ったのが、きんぴらごぼうや胡麻和えや鶏そぼろ。

あとから作ったのが数種のナムルや八宝菜。


はじめのほうで作ったものは、おなじみのもの。

後で作ったのは、それほど日本人にはなじみこんでないもの。

「これはこういう味」という固定観念があるかないか、の違いがまずいかうまいかに繋がったようなのだ。


全く不覚であった。


基本を抑えて基本通り分量どおりに作ればおいしいのかと安直に考えていたが、どうもそういうことではないらしい。


なじみのおかず、これはこういう味という刷り込みがあると、それが判断の基準になってしまうようなのだ。

基準より上ならおいしい、下ならまずい。


一方たまにしか食べないもの、本場の味はこれ、というのを知らなければ、食べやすさや口に入れたときのうまみなどを基にしておいしいまずいということになるようだ。


つまり本の通りに作ったとしても、おいしいお料理になるかどうかはわからないということなんだろう。


今までの私の好みや夫の好み、経験などを全く無視して料理のおいしいまずいは語れないのだろう。

お袋の味に対して意見は分かれやすいけど、創作料理はみながおいしいという理由の一つが説明できたような気がした。


・・・・・・じゃあ、創作料理に走るか?


答は否。


基本の料理をおいしく作ると決めたではないか。

ではどうするか。


その「おいしい」という基準を他人基準でなく自分基準に換えればいいのだ。


え?じゃあ今までと同じだって?

いえいえ、違います。


謙虚にいろんな本の教えを乞いながら、これからは基本のお料理をいろんなレシピで試して体で覚えて行くことにする。

おいしいと思えるものを見つけ、そこにヒントを見出したら、そのお料理に対して自分のレシピを探す。


一朝一夕においしいものが作れるようになるわけじゃないのだから。

それくらいの努力は、覚悟してやっていかねばなるまい。


本を見て基本を簡単に教わろうなどと安易に考えていたが、これからはコツコツ体当たり路線ですすむやり方に方向転換することにしたぶどうであった。