年明けから主食を玄米に変えたぶどうさん。


目的はずばりダイエット・・・ではない。

健康志向に玄米を・・・というわけでもない。


菜食で過ごした数年間も主食だけは玄米にするのを避けていたのに、なぜに突然に?!といぶかる方もおられるだろう。


玄米にしなかった理由は、ひとつは玄米菜食信奉者にはなりたくなかったこと。

もうひとつは夫が玄米を好まなかったこと。

そして白米のおいしい土地でわざわざ玄米を買う理由がなかったことによる。


私は玄米菜食がすばらしい食生活だ、とは思っていない。

理念としてはすばらしいけれど、それにしばられ狭量な考えに陥る可能性が私にはあるので、主食を玄米にすることを無意識に避けていたのだろう。

1年前に菜食をやめ肉食もしてもよいと自分に許すことで、以前より変化にとんだ食生活とバランスの取れた考えを保てるようになった。

今が葛藤のない自然な状態で心地いいので、私には玄米菜食はあわないのだろう。

おまけに誰かの考えに右に倣えというのが大の苦手である。

玄米菜食が金科玉条のごとき考えは、ある意味宗教のように思える。

宗教に入らない最後の砦が玄米を食べないということだったのかもしれない。

つまり私には玄米菜食主義はまったく合わない。


夫は夫で玄米を好まない。

それは私の父にも言えることだ。

男というものはなぜに白米を好み、玄米、色のついた分搗き米や胚芽米、発芽玄米などを好まないのだろうと不思議な気持ちを覚えずにはいられない。


夫が玄米を食べないとなると、両方を用意するかどちらかにあわせるしかない。

両方は面倒なので、自然白米を用意することになる。


そしてここ北国はお米どころだ。

東北各県にはそれぞれの自慢のお米がある。

しかもびっくりするほど安いうえにおいしい。

ところが、玄米となるとなぜか割高だしどこにでも置いているわけではない。

精米した白米のほうが、目減りする玄米より割安というなんとも不思議な構図が出来上がっている。

それなら白米を買ったほうがいいではないか。


そんなこんなで白米一辺倒であったのが、年始より急に玄米を食べることにした。


事の発端は、賞味期限の切れたレトルトカレーであった。

この体に悪そうな(そんなの買うなよ)インスタントのカレー(しかも賞味期限切れ)を食べるのに、ご飯がなかったのだ。

夫はその日泊まりの仕事で昼飯も夕飯も朝食もいらない。

どこかの地点でご飯を炊かねばならない。


怠け者の私は鍋でご飯を炊くのが面倒で、ひさしぶりに炊飯器を使うことにした。

炊飯器を開けるとお釜に玄米の水加減の目盛が飛び込んできた。

納戸部屋にはそういえば実家から送ってきた玄米がある。


炊飯器で炊いた玄米は消化が悪く胃もたれするので避けていたのだが、手軽さには換えられない。

これが玄米生活の始まりとなろうとは予想だにしなかったぶどうであった。


つづく