今朝のインターネットニュースで、時事通信がホメオパシーに関する記事を伝えていた。
日本学術会議の金澤一郎会長が、談話という形で発表したものを伝えたもので、「ホメオパシーは科学的に明確に否定されている。治療に使用することは厳に慎むべき行為」とのこと。
ホメオパシーに関しては代替医療であること、レメディを飲むといったようなこと位しか知らなかった。
ホメオパシーは子供を持つお母さんや、スピ系の人に人気がある。
最近たまたま立ち寄ったブログで、ホメオパスの一人である助産師がレメディを用い、出産後に行われる適切な処置をせずに死亡事故がおき訴訟問題に発展したことを知ったばかり。
早速ホメオパシーをちらと調べてみることにした。
てっとりばやくウィキペディアが引っかかり、それをつら~っと読んでみた。
まあ内容はわからないにせよ、世間の目が大体わかった。
ウィキは手軽で便利で、知識を寄せてまとめてくれているところがありがたい。
一方で、書いている人の主観や世間の風潮がモロに出る。
今回のホメオパシーの事件や時事通信の影響でか、記載されている内容は推して知るべし的なものであった。
しばらく時間がたったら内容や口調が変わるのもウィキの不思議。
情報を取捨選択、物事を見る目の公平公正性を常に持たねばならないと、社会的な背景を調べるたびにウィキに襟を正される思いだ。
良いにつけ悪いにつけ・・・
まじめに書いている人には申し訳ないのだけど、話半分ってとこか。
ところで、冒頭の談話を発表した「日本学術会議」ってなんぞやという疑問が起こった。
やっぱりウィキがひっかかり、ちらと見ると「日本の内閣府の特別の機関のひとつ」らしい。
そして、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とするのだとか。
ふーん、政府機関だったのか。
科学を反映浸透させるのだったら、非科学的なものは排除する姿勢も頷ける。
この世はなんでも科学でなりたち、科学で説明できることだけが真実なのね。
そして説明できないものは排除するんだ。
これってかなり危ない機関なのかもしれない。
世の中は科学だけで成り立っているとは思えないからだ。
若しそう信じている人だけがこの機関で任命され(内閣総理大臣の任命)働き、権威と権力をもっているのなら、恐ろしいことだと感じるのは私だけだろうか。
かといって、わけのわからないことに重きを置きすぎるのもどうかとは思う。
私はホメオパシーを肯定も否定もしない。
人に薦めないし、自分に試す機会もあるかどうかわからない。
現代医療を全否定してホメオパシーや他の代替医療を選択するのが正しいとは思えないし、現代医療が万能だとも思わない。
自分や自分が面倒を見ているものたちの「生命」に対する責任を果たせるよう、その時々で必要なものを選択し実行する、間違ったら選びなおすということが大事なのではないだろうか。
そして、それを考えるのは当事者だけでなく、提言する人が必要なのではないだろうか。
それが医者含めた医療従事者であったり、学術会議を構成する人々なのではないだろうか。
提言する人はバランス感覚のある人であって欲しいけれど。
日本学術会議の談では荒唐無稽という言葉が使われている。
しかしこの世は荒唐無稽に満ちている。
もしかしたら、その否定した言葉こそ未来では荒唐無稽といわれるかもしれないのだ。
言っておくが批判をしているのではない。
科学で説明のつかないまだわからない部分はあるにせよ、適切な方法がある場合それに従うように注意喚起を促すということでよかったのではないかと思われるのに敢えてこの言葉を使ったのには、深刻な思いがあったのだろうと推察されるからだ。
自分の命は自分の責任で守り全うしなければならない。
医療の選択は方法の一つであり、選択の責任を負っていることも充分認識しておかねばならないと思う。
選択の内容や含まれる意味を知らなかった、では済まされない。
そのためにはやはり「知る」ということが生きることなのではないだろうか。
あまり人目をひかないこの記事は、(双方に公正な目で書いてあるかどうかは私にはわからないが)、実はとてもたくさんの重要なことを知らせているのではないだろうか。
こうした一つ一つの小さく扱われがちな出来事を丁寧に考える作業が大切なのだと感じるぶどうであった。