終の棲家と聞いて、思いはさまざまであろう。


今住んでいるところで年をとり死ぬまで住み続けるところ、と思う人もいるだろうし、いつか理想の土地を見つけそこに家族で移り住むところだと夢見る人もいるだろう。


終の棲家の意味は家という意味だけでなく、そこに人生の終着点を含んでいる。


さて、人生の終着点である終の棲家には一体どれくらいの人が関わることを想定しているろうか。


年老いた夫婦に新しい家庭を持った子供との同居、夫婦二人だけの生活、どちらかに先立たれた一人暮らし・・・

これらは自分の選んだ家で最期まで暮らすということを想定し、家族や身近な人だけが関わることになる。


一方で、家族がいない、若しくは家族がいながらも病院やホスピス、老人施設での老後を選ぶ人もいる。


選ぶ・・・というのが正しいかどうかはわからない。

選んだわけじゃなく選ばざるを得なかった人というのも多いかもしれない。


病院や老人施設で老後を暮らすことは惨めでさびしいと思われるのに、それを選ばせるのが社会悪だと言っているのではない。


病気の親を家で見ることが出来ない人もいるだろうし、子供が無く身元の無い人を年老いた兄弟が見かねて老人施設を世話することだってあるだろう。


私には祖父母が一人も居らず、老後どうするかという問題を家庭で持ったことは無い。

まだまだ夫や私は若いし、親も生きている。


だからといっては何だが、年老いてどうなるか、あまりぴんとこない。

現実問題末っ子の私の両親は高齢で、しかしまだまだ自立して元気なので、なんとなくこの先続くであろう田舎での二人暮らしに触れないままにしている。

けれど、老後というのは誰しもに等しくやってくる、いずれ行く道なのだ。


田舎に置いたままの両親の行く末が気になりだした昨今、老人施設での虐待や人権侵害のニュースが目に飛び込んでくるようになった。


介護を志し、プロとして働く人たちの信じがたい行動。

これが真実ならば、一体老人施設で何が起こっているのだろうか。


老人はかつて日本を、社会を支えてきた人々だ。

尊厳ある生き方、死に方をする権利がある。


一方で、年をとることで少しずつ柔軟でなくなった考え方や気持ちの持ち方が、人との摩擦の原因となることもあるだろう。

長い間個として生きてきた人が、いきなり集団の中に放り込まれて尊重されること無く集団行動に馴染むように制限されることは辛いことだろう。


介護をしているプロだって人間。

介護や世話をされている人だって人間。


終の棲家として選んだ場所で起こった悲しい出来事は、人としてのあり方や人を尊重する心のあり方を問われているのではないだろうか。


どこで迎えるのかわからない、人生の終着点。

終の棲家のありようは、人それぞれの生き様がもたらすものかもしれない。


どこで迎えても誰と迎えても、笑ってさよならをいえる場所。

そういう終の棲家を、それぞれが、誰かのために用意し用意されるというそんな社会になって欲しいと願わずにいられない。