このごろ、依存について考えることがあった。
自身に責任を持って生きるのであれば、依存ということにとても敏感にならざるを得ない。
周囲の人に、肉親に、友人に、そういった目に見えるものだけでなく、ご先祖、宗教の祖、宇宙人、天使、ハイヤーセルフ、神など目に見えない、あるかどうかもわからない、そんな対象に甘えや、決定権の委譲、期待を持つということは、いったいどんなことなのだろう。
対象、抱く感情や任せる内容は、あげればきりがない。
人生でどこまでが自分の責任で、どこまでが成り行きに任せるか。
しゃかりきになっても、どうにもならないことは人生に存在するし、そのことに抗うのが賢明だとは言わない。
そのときは受け入れ、成り行きに任せることが大事だろう。
その線引きでさえ各人に任されているとはいえ、もし人として生きていて、自己の人生を全うする気概があるなら、依存心を捨て意識をはっきりと持つことは大事なのではなかろうか。
人は何のために生きるのか。
今まで誰もこの答えを明確に探り当てている人はいない。
けれど、はっきりしているのは、人は自己の人生の主人であるということである。
この際自己が何なのか、それは触れないでおくが。
少なくとも人がばらばらに存在するかに見えるこの世界で、それぞれの人が主役であり、己の主人であることは間違いない。
それなら、誰かや見えない何か、たとえ高次の自己といわれるものに対しても、譲ることなく意識の中心は己にあることをはっきりと自覚し責任を持って生きる姿勢が大事なのではないだろうか。
結局。
意味するところは、自己に執着せよということではなく、ふわふわと地に足の着かない依存と信頼を履き違えたような心持はもうやめて、ふんどし締め直して生きようということである。
マダム道は、そんな人生を歩む人とともにあるのである。
マダムは自己の人生の女主人。ふんどしは最近流行しているそうだ┐( ̄ヘ ̄)┌それも依存か・・・