いつかのハーゲンダッツ。
ハートというより口蓋垂?



これはお漬物のお皿に現れたスマイル☺️


おとぼけ顔の目玉焼き😮

ときどき現れる食べものたちからのマークたちに楽しませてもらいます。
そして得した気分になれるのは幸せです。


ずいぶん前のことだが、仲の良い友達が1年ほど南の島で暮らしていた。
まったく違う環境でがんばって働くところに遊びに行った。
私は異動になり、環境に慣れずに仕事を休ませてもらっている時だったので、今思えばもっと休んで長期滞在したら良かった。
海と空がきれいなあの場所で、のんびりしたらどうなっていただろうと考える。

海辺で音楽祭があり、友だちが運転する車で連れて行ってもらった。
そこに仲良くしている仕事関係の人の仲間が偶然出演していた。
その方は顔が広く、好奇心旺盛で、懐の深い素敵な人である。そんな人の知り合いと偶然会えたことは嬉しいことであった。

うまくいかないこともあるが、良い人たちに優しく見守ってもらえることもある。
きっと私は幸運なのだ。

あの休暇で予定どおりバタバタとした日程のまま旅行を終えたことは、私らしいことだったと今は思う。
時を経て、パワーとエネルギー、そして諦めと厚かましさが身についたから、のんびりできたかもと思えるのだ。整わないまま滞在を延ばすことは、例えば引っ張りすぎたゴム糸のようではないだろうか。その反動が反動は大きいような気がする。少しずつ整えることで、大きな波紋もなく元の生活に戻れた。

そして、今、良い思い出として振り返ることができている。




スペイン旅行については、まず夫に説明し心配しながらも、私の意向を尊重して了解してもらった。

 

次に病床の母とその母の介護をする父に「バルセロナに行く。行きと帰りの道中は、私一人です」と宣言し、両親を不安にさせながらも了承を得た私であったが、その後、母は車いす生活になり、介護がますます必要になった。状態が安定しないために緩和ケア病棟に入院となってしまう。

私の自宅と職場を西と東で結ぶ底辺とすると母の入院する病院は北側、つまり三角形の頂点の位置にありました。

毎日、仕事の帰りに母のところに寄れたのは、夫の理解があったからです。

施設に入所した祖母のもとに、母に毎日通っていた母だった。

その母の病床に通った日々、残り少ないと思われる時間は悲しかったけれど、母と二人きりで、母に頼りにされた時間は幸せな時間であった。

母も祖母のところに通いながらそのように感じたのであればいいなと思います。

 

その後、脳梗塞を起こし状態が急変。ちょっと安定したかなというところで、母はもう一度脳梗塞を起こしてしまう。

最期の時、私は「お母さん」と呼んで、何度か引き留めたが母はとうとう逝ってしまった。引き留めないで穏やかに逝かせてあげた方がよかったのではないだろうかと後悔する。

 

さて、母は語学の好きな人でした。英語を習ったり、フランス語を習ったりしていた。

海外旅行に憧れており、母が病気を発症する前に父親にドイツとフランス、スイスに連れて行ってもらって、大変喜び、満足していた。

 

母の死後、亡くなって1か月あまりでスペイン旅行に行くかどうか悩んでいたが、父親が行くようにと言ってくれ、旅行は実現した。(もちろん、夫も気持ちよく送り出してくれた)

その旅行初日、バルセロナのホテルで寝ているときに私は夢を見た。

窓の向こうから母が手を振っているのだ。「あぁ、好奇心の強いお母さんがついてきたんだな」と納得しながら目が覚める。

お母さん、私は少し親孝行できたでしょうか。

最期の時間を一緒に過ごすことができて、私は幸せでした。