私がバルセロナへの旅行を計画したとき、母はすでに病床にいた。
抗がん剤治療が終わり次の桜は見られないと主治医に言われた母だったが、桜が散っても父の介護でマイペースに暮らしていた。
「今度、スペインに行こうと思うの」と伝え、行き帰りの旅程がひとりであること知り、二人とも心配した。
 
思えば私は両親をヤキモキと心配させる娘だった。
私の学生生活のうまくいかなさや自宅でのだらしなさが二人を心配させていた。また母の心配の大部分は母の価値観では結婚すべき年齢になっても私が結婚しないことが占めていた。
段々と周りがそのことに触れにくい年齢になり、私に結婚についてやいやい言うのは母だけになったある日、母が「結婚しなくても、これだけ自由に遊んべることができて、〇〇ちゃんは幸せだと思うわ。」と言った。母は皮肉を言えない人だったので、私は額面通りに受け取っている。
 
母から聞くエピソードによると、母は私の祖母、つまり母の母親に「良い娘」であるようにと育てられたようであった。
幼い時には気が付かなかったが、母という人は嘘を付くことができず、決して要領の良くない不器用な人だと私は薄々気が付く。
祖母は母の気の利かなさをよく嘆いていた。母に気が利くということはあまり縁がなく、その誠実さや真面目さが母の良いところである。私にとっては優しいおばあちゃんであるが、母にとっては厳しい母親で、そんな母親の期待に応えられないことを申し訳なく思っていたようだ。
母を頼って母の居住地に近い施設に入所した祖母のために、毎日施設に通う母。ふたりでどんな話をしていたのか、私は詳しくは知らない。献身的に毎日通っていた母は祖母の臨終の際に「良い娘でなかったね。ごめんね」と言っていたと聞いた。
 
また、母は成績優秀な弟と比べられて嫌だったことをよく私に話しており、「私は成績のことで兄弟は比べない」とよく言っていた。
確かに成績のことについて明らかに比べられたことはなかったが、否定的に育てられた母は私のこともあまり褒めなかった。母から聞かされる私はわがままで女の子の役割を果たさない粗野な娘であった。
まあ、私の幼少期は褒めて育てるという価値観はなかったように思うので仕方がない気もするのだが、小学生の頃には「母は私ことが嫌いなのか」と真剣に思っていた。
私のことを好きなのかどうか疑わしい母が私のことを幸せだと言ったのだ、本意は不明であるが私は額面通りに受け取ることにしている。
 
そして、遅ればせながら私が結婚することになり、夫と夫の両親の初顔合わせをしたときに母は「なかなか結婚しないでヤキモキしましたが、結婚するようにと言い続けていた良かったです」と得意気に言っていたことを思い出す。