第7章 福島中央テレビ 日本テレビ系&テレビ朝日系クロスネット→福島中央テレビ 日本テレビ系マストバイネット 福島放送 テレビ朝日系マストバイネット 福島テレビTBS系&フジテレビ系クロスネット→福島テレビ フジテレビ系マストバイネット テレビユー福島 TBS系マストバイネット
四局化に合わせた平穏なネットチェンジ
福島民放局のこれ迄の動き


 

 

独自の民放局を設立

昭和50年代に福島第三民放局設立の機運が高まり、1978年に福島第三民放局の電波が割り当てられ、112件の免許申請がありました。

福島第三民放局のホストは日本テレビ・TBS・フジテレビ・NET改めテレビ朝日が競いました。

その後、TBSとNET改めテレビ朝日に絞られ、テレ朝側は「福島朝日放送」、「福島テレビ朝日」、「福島朝日テレビ」を社名候補にら挙げていましたが、郵政省からの行政指導で「福島放送株式会社」に落ち着きました。

一方のTBSも「株式会社福島放送」で名乗りを挙げましたが、郵政省との協議の結果「TBS系第四民放局を認める代わりに福島放送の名をテレ朝へ譲渡する」事で合意。


1980年に田中角栄元首相、小林與三次日本テレビ社長(当時)、山西由之TBS社長(当時)、浅野賢澄フジテレビ社長(当時)、高野信テレビ朝日社長(当時)、松平勇雄福島県知事(当時)の会談で福島テレビをフジテレビ系フルネット、福島中央テレビを日本テレビ系フルネット、福島第三民放局をテレビ朝日系フルネット、福島第四民放局をTBS系フルネットにすることで決着しました。


1981年10月にに福島第三民放局としてテレビ朝日系「福島放送」が開局し、ANNマストバイネット局は悲願の10局目を達成しました。

ネット移行比率は福島中央テレビ:2・福島テレビ:8で、これは朝日放送の番組が福島テレビで放送されていた事も影響しています。

そして、演奏所は郡山市に設置しました。


福島県の民放4局化が昭和期に実現したのは、田中角栄の娘婿にあたる、田中直紀の衆院議員時代の選挙区が旧福島3区(福島県浜通り)だったのが大きく影響しました。


福島放送開局により福島の民放の過密ネットが解消されました。


 



そして、遂に四局化を達成

そして、昭和50年代に入り、福島テレビがフジテレビ30%の株保有率に対しTBSは僅か1%しかなかったのと、いつの間にかTBS系の番組が減っており、独自の系列局の開局を考える様になり、フジテレビと田中角栄との相談の結果、福島にテレビ朝日系第三民放局とTBS系第四民放局の開局を決め、先に福島第三民放局112件の免許申請がありました。 1981年にテレビ朝日系フルネットの福島放送が開局し、福島中央テレビから独立。

そして福島第四民放局は1981年に割り当てられて、166件の免許申請があり、翌1982年に交付。1983年にテレビユー福島が開局しました。

 

開局への苦労

FTV・福島テレビは1983年3月までTBS系メイン・フジテレビ系サブのクロスネットで、ニュースネットは排他協定の兼ね合いからJNN単独でした。

福島テレビの資本構成にTBSは異議を唱えたため、TBSは新局開局に動き、福島テレビはフジテレビ系フルネットを選択することになりました。

 当初は1983年10月1日に開局する予定でしたが、調整が間に合わず12月4日と言う中途半端な日時の開局となりました。その後、ニュースネットの移行は開局前から時間が掛かり、福島テレビからJNNニュースが撤退したら1983年4月から8ヶ月間はTBS福島支局を仮設置して対処、翌年1月にCBC担当のキューピー3分クッキングが移行して完全ネットを達成しました。

 

これで福島の民放局は宮城に続き東北地区の4局化を達成するのでした。