30年前の今日、TBS系テレビユー福島が開局した日でした。

 



複雑な福島の民放事情

福島第一民放局は当初rfcラジオ福島が1957年10月にテレビ予備免許を所得しましたが、rfcの親会社の福島民報社と旧・福島テレビ放送の申請者だった福島民友新聞社が出資比率や役員人選で対立したため、1958年4月1日にテレビ予備免許が失効しました。

次いで(株)福島テレビ(現在の福島テレビは全くの別会社)が1960年(昭和35年)に予備免許を取得したものの、やはり1961年(昭和36年)3月1日を持って免許が失効となり、開局できずに終わりました。

1962年(昭和37年)、テレビ免許割当に対する競願者が多数出たため、県と県議会が調停に入り、県を中心に設立し、翌1963年(昭和38年)にFTV・福島テレビとして開局しました。

1局しかない強みを発揮して、ネットワークは特定のキー局によるフルネットによらず、オープンネットとなりました。

 

福島中央テレビが開局するも…

一方で、1968年(昭和43年)より起こった「郡山に新しいテレビ局を」という県民テレビ運動(新免テレビ運動)から1969年(昭和44年)に郡山市で福島中央テレビ(FCT)が設立。同社は申請を取り下げなかった福島民友や県民テレビ運動を支えてきた朝日新聞社をバックボーンとして翌年開局しました。

読売新聞社系列である福島民友新聞社が設立の母体に入っていながら、当時は福島テレビ側がスポーツ中継などの人気番組がある日本テレビの番組を手放したがらず、また日本テレビ側もVHF局に固執していた為、福島中央テレビは日本テレビとのネットワークを結ぶことができず、日本教育テレビ(NETテレビ、現在のテレビ朝日)系列とフジテレビ系列で開局する事となりました。

しかし、NET側がネット拡大を目論んでいた事と、読売新聞社は長年の民報対民友の関係から、民友と日本テレビは民報と相乗りの福島テレビから手を引いて、福島中央テレビを盛り立てるべきだと考えてる様になります。こうした福島中央テレビと読売・民友側の利害が一致し、民友が持つ福島テレビの株式とフジサンケイグループが持つ福島中央テレビの株式を交換。こうしてネット交換が実現し、福島中央テレビは逆に読売資本をバックに、日本テレビ系列の番組を主軸に編成することが可能となり、僅か1年の1971年に福島テレビはTBSとフジテレビとの、福島中央テレビは日本テレビとNETのそれぞれクロスネットとなりました。

 

そして完全四局化へ

そして、昭和50年代に入り、福島テレビがフジテレビ30%の株保有率に対しTBSは僅か1%しかなかったのと、いつの間にかTBS系の番組が減っており、独自の系列局の開局を考える様になり、フジテレビと田中角栄との相談の結果、福島にテレビ朝日系第三民放局とTBS系第四民放局の開局を決め、先に福島第三民放局112件の免許申請がありました。 1981年にテレビ朝日系フルネットの福島放送が開局し、福島中央テレビから独立。

そして福島第四民放局は1981年に割り当てられて、166件の免許申請があり、翌1982年に交付。1983年にテレビユー福島が開局しました。

 

開局への苦労

FTV・福島テレビは1983年3月までTBS系メイン・フジテレビ系サブのクロスネットで、ニュースネットは排他協定の兼ね合いからJNN単独でした。

福島テレビの資本構成にTBSは異議を唱えたため、TBSは新局開局に動き、福島テレビはフジテレビ系フルネットを選択することになりました。

 当初は1983年10月1日に開局する予定でしたが、調整が間に合わず12月4日と言う中途半端な日時の開局となりました。その後、ニュースネットの移行は開局前から時間が掛かり、福島テレビからJNNニュースが撤退したら1983年4月から8ヶ月間はTBS福島支局を仮設置して対処、翌年1月にCBC担当のキューピー3分クッキングが移行して完全ネットを達成しました。

 福島県の民放4局化が昭和期に実現したのは、田中角栄の娘婿にあたる、田中直紀の衆院議員時代の選挙区が旧福島3区(福島県浜通り)だったのが大きく影響しました。

これで福島の民放局は宮城に続き東北地区の4局化を達成するのでした。