国鉄分割民営化トホホ物語の最終回はローカル輸送の涙ぐましい努力を書きます。

地方での増発をしたいのだけど、予算が無い国鉄末期では既存の車両を活用し、電化や増発にあてており、完全新造は特殊な条件のみで行いました。


1983年に筑肥線が電化され、既にチョッパ制御が主流になっていたにも関わらず、抵抗制御の103系1500番台の導入となりました。

それは、当時の筑肥線の運転本数が少なく、回生ブレーキが失効する恐れがあった為で、こればかりは当時は致し方なかったと言えます。

お陰で福岡市営地下鉄は廃熱に悩まされましたが。


民営化後に技術が進歩し、筑肥線姪浜〜筑前前原間も複線化された為、増発用に303系がVVVF省エネ車として新造されるも3編成で打ち止めとなり、


地下鉄直通は305系に置き換わり解決を見ました。


ローカル区間は103系を3両編成にした車両で対応しています。



1984年に電化された越後・弥彦線は1両足りたも新造車を投入せず、改造車・余剰車等の中古車で済ませる事態となりました。

また、大都市での増発車両を新規電化投入名目で導入し、余剰車を新規電化線区へ投入するケースも良くありました。


1985年3月ダイヤ改正で、将来の分割民営化に伴い地方線区で「試行列車」が増発され、時刻表にもαマークが付いていました。

これは輸送力増強の是非を問う列車で、空気輸送なら一年後に廃止する列車でしたが、幸いにも殆ど廃止されず、増発に回りました。


国鉄分割民営化直前の1986〜1987年の国鉄最後の新形式として



キハ185系



キハ54系、

キハ31系


キハ32系


213系

121系がそれぞれ新造それ、213系以外は北海道、四国、九州に配備され、どれも廃車発生品を再利用していた国鉄末期の状況を示した車両でした。