うめきた新駅とともに梅田から消える“地上の線路” 149年ぶり JR・阪急・阪神はどう変わった?
“うめきた新駅”地下に誕生 消える“地上の線路”
西梅田一番踏切。地下化によって姿を消す(宮武和多哉撮影)。
JR大阪駅の北側、かつて「梅田貨物駅」があった場所の地下に、大阪駅構内の扱いで、通称「うめきた新駅」が誕生します。2023年3月の開業に先立ち、地上の貨物線(東海道線支線)を走る特急「くろしお」「はるか」や貨物列車は、2月13日から地下線の走行に切り替えられ(うめきた新駅は開業まで通過扱い)、地上の線路は撤去されます。
いま大阪駅・梅田周辺に密集しているJRや阪急・阪神などの鉄道路線はすでに高架化・地下化を果たしており、今回の地下化によって、梅田エリアから地上の線路がすべて姿を消すことになるのです。
しかしこれらの路線や駅は、開業時はもちろん地上にありました。1日250万人の乗降客で賑わう日本有数のターミナル・梅田の地上からすべてのレールが姿を消すまで、149年間の歴史を追ってみましょう。
いまのJR・阪神・阪急 地上駅ができるまで
低湿地を埋めた田畑が広がり、“埋田”と呼ばれた梅田の地上に、官鉄(国有鉄道。のちに国鉄・JR)大阪~神戸間の起点として、現在の大阪駅が姿を現したのは、1874(明治7)年のこと。さらに私鉄「大阪鉄道城東線」(天王寺~京橋~大阪。現在の大阪環状線の東半分)が1895(明治28)年に、「西成鉄道」(安治川口~西九条~大阪。現在の桜島線と大阪環状線の一部)年が1898(明治31)年に大阪駅へ到達。両社は1906(明治39)年の「鉄道国有法」成立で国有化され、現在のJR神戸線・大阪環状線の位置関係はこの時点でほぼ固まります。
徐々に賑わいを見せてきた梅田の西側に、神戸から阪神本線が乗り入れてきたのは1906(明治39)年のことです。梅田の西の外れにあった「出入橋駅」(現在の毎日新聞本社南側)まで前年に開業し、いまの「ハービスENT」にあった地上駅まで300mほど延伸を果たしました。 1910(明治43)年には現在の阪急宝塚線が開通。大阪市電(1903年から順次開業)の停留所に少しでも駅を近づけるべく、都市部の鉄道としては異例の30‰もの急勾配で国鉄の線路をまたぎ越す跨線橋を設置し、いま阪急百貨店梅田店があるあたりの地上に梅田駅が開業しました。 こうして、30年前まで田畑と数件の家しかなかった梅田エリアは、石積みの威容を誇る国鉄の「大阪駅」、阪神・阪急の「梅田駅」、そして路上には大阪市電が走り、複雑に線路が入り組むターミナルに変貌を遂げたのです。
阪急高架化から8年後「国鉄が高架化するから阪急は地上に降りてねヨロシク」
旧・梅田駅(阪急)東側にある「HEP FIVE」。京阪電鉄の梅田駅は、この周辺に設置される予定だった(宮武和多哉撮影)。
各社の中で、先陣を切って1926(大正15)年に阪急・梅田駅が高架化を果たします。しかしこの頃、大阪市は既に国鉄(国有鉄道)大阪駅の高架化を強く求めており、そうなると高架上の阪急と地上の国鉄の“入れ替え”が必要となることは明白でした。
しかし、たった数年でも、阪急はこの高架化を急ぐ必要がありました。急激な乗客の増加で跨線橋の昇り降りが列車運行のネックとなっていただけでなく、十三~梅田間は宝塚線・神戸線の列車が集中し、一帯の高架化による複々線化が一刻も早く求められていたのです。
なお阪急は国鉄の高架化後の要求を見越して、当初より駅部分をすぐ撤去できる構造で建設していたといいます。もっともそのあと国が「費用はすべて阪急の負担」と言い出したのは想定外だったようで、数年のあいだ交渉は紛糾したものの、さすがに折半(ただし阪急側が多め)で合意。
1934(昭和9)年5月31日23時30分、阪急の最終列車が発車してから都合1800人(阪急600人、国鉄1200人)の人海戦術で切り替えが行われ、翌朝には高架上の国鉄大阪駅と、地上の阪急・梅田駅に列車が発着していたといいます。
なお、国鉄大阪駅は高架化を見据えて旅客・貨物機能の分離が図られ、いまの「うめきた新駅」の場所へ1928(昭和3)年に貨物拠点が設置されます。このあと2013年までの85年にわたって、最盛時には360万トンの貨物が発着する物流の要として機能を続けます。 そのころ阪神は、地上の梅田駅から四条畷方面への免許を申請するなど、延伸を模索していました。もっともこの頃には京阪が四条畷を経由する路線の新設に向けて駅用地(現在のHEP FIVE周辺)を確保するなど活発に動いており、都市開発のライバルへのけん制と取れないこともありません。
しかし阪神も京阪も延伸は実現せず。1939(昭和14)年に阪神は、地下鉄御堂筋線・梅田駅と目と鼻の先に、現在の地下駅を開業します。地下鉄とほぼ同じ深さにあるため、その先に線路を伸ばすことはほぼ不可能となりました。
阪急・梅田駅が去った地上は「シャンデリアが豪華なコンコース」に?
地下化工事が始まる前の梅田貨物駅(宮武和多哉撮影)。
戦後は阪急の駅が再度、高架化されることとなり、その工事が完成しすべての列車が地上を去ったのは1971(昭和46)年のことでした。また、阪急ファイブ(現在のHEP FIVE)前に発着していた大阪市電はその2年前に全線廃止となっており、これで梅田エリアから、地上の旅客駅はすべて姿を消しました。
新しい阪急の駅は国鉄の北側、それまでの駅から北へ離れてしまいましたが、阪急はここに自社の百貨店やオフィスビルを結ぶ“動く遊歩道”を設置します。旧・梅田駅のコンコースは天井に輝くシャンデリアごと再活用され、他の私鉄と一線を画す豪華さを変わらず演出していました(シャンデリアは撤去済、百貨店13階に一部移設)。 そのころ梅田貨物駅と貨物線(東海道線支線)はまだまだ地上にあったものの、約17ヘクタール(東京ドーム3.5個分)もの土地は西側の福島・大淀地区との分断を生んでいたこともあり、早くから郊外への移転交渉が進んでいました。
大阪地下駅位置
そして2013年の貨物駅閉鎖とともに跡地の再開発(グランフロント2期)構想も一挙にまとまり、7年の工期を経て貨物線の地下化もようやく完成。官設鉄道の大阪駅誕生から約149年、2023年2月13日の地下線への切り替えをもって、梅田エリア最後の“地上の線路”が姿を消します。これにともない最後まで残っていた「西梅田一番踏切」も、先立って2月11日から2日間をかけて撤去されます。
宮武和多哉(旅行・乗り物ライター)
此処迄は乗りものニュース引用
大阪梅田を通るJRの貨物線が地下化されます。しかし、地上の貨物駅跡にはいまだ更地も残ります。他の大都市では貨物駅の再開発が完了するなか、ここだけは長く貨物駅が存続しました。「大阪最後の一等地」はどう変貌するのでしょうか。
まもなく姿を消す梅田貨物線 地上の再開発は
JR大阪駅の北側で進む「うめきたプロジェクト」。10年前までJR貨物の貨物専用駅だった梅田駅跡地約24ヘクタールでの再開発計画です。その1期エリアにできた複合型商業施設グランフロント大阪の高層階に上ると、駅跡の開発状況を一望できます。巨大クレーンがせわしなく動いている建設現場の向こうに、関空特急「はるか」が梅田貨物線を行き来しているのも見えるでしょう。
特急電車が関西最大の繁華街である梅田エリアの裏手を走り抜ける姿は独特な雰囲気を醸し出してきましたが、梅田貨物線での運行は2023年2月11日で終了。特急は翌日、終日運休して、13日から地下線を経由します。3月18日ダイヤ改正で開業する大阪駅地下ホームにつながる新線への切替工事をするからです。
大阪駅南西にある西梅田エリアの高層ビル群。ここも1982年まで梅田駅のコンテナ施設があった(森口誠之撮影)。
梅田駅の敷地は、1987(昭和62)年の国鉄分割民営化の際、約37兆円の累積赤字を返済するため売却が決まりました。東京の汐留駅、埼玉の大宮操車場、名古屋の笹島駅など他の貨物施設も売却され、約20年前に開発は終了。それぞれ鉄道新駅も設置されました。
梅田駅は長らく大阪都心最後の一等地として注目されましたが、あれから36年経っても再開発は未完のままです。なぜ大幅に遅れているのでしょうか。
存在した「梅田駅の隣の貨物駅」計画
梅田駅の広大な敷地を再開発すべきとの声は1960年代からありましたが、当時は鉄道貨物の全盛期であり、国鉄が撤去に応じることはありませんでした。
しかし70年代に鉄道貨物の輸送量が急減し、75(昭和50)年度末の国鉄の累積赤字が3兆円を超えると、状況が変わります。
国鉄は当時、梅田駅の西側で4階建ての巨大な貨物駅を整備する計画を立案していました。1階に貨物発着ホーム12線、2階にコンテナの荷捌き場、3階以上は倉庫や事務所が入居する巨大物流施設を想定しました。梅田駅の貨物機能を西側に集約することで、駅南西部のコンテナ施設6.5ヘクタール、駅東側の5ヘクタールを売却しようとの狙いです。
「梅田貨物駅の機能移転」貨物縮小に安堵した街は反発
1982(昭和57)年には梅田駅南西部の施設を使用停止します。しかし、同年3月末の国鉄の累積赤字は16兆円を超え、新規の設備投資は全面的に凍結されてしまいます。
転換点となったのは、1984(昭和59)年です。国鉄は貨物輸送の大幅な方針転換を行い、操車場で貨車の入換や編成の組み立てをする従来の輸送方式を全廃しました。
国鉄と大阪市は梅田駅の貨物取扱の郊外移転を検討します。候補地となったのが、吹田操車場です。
吹田操車場は東海道本線吹田駅・岸部駅付近にあった日本最大の貨物ヤードでした。最盛期には1日6000両の貨車が、朝昼晩、深夜も含めて広大な構内を行き来していましたが、操車場廃止後、貨車の入換は大幅に減り、静かな夜が訪れました。
ところが、吹田新貨物駅構想が報道されると、地元住民や市役所は猛反発しました。新貨物駅が整備されると、周辺の住環境は確実に悪化するからです。
1987(昭和62)年の国鉄分割民営化後、梅田駅はJR貨物の貨物駅として引き続き使用されましたが、土地は国鉄清算事業団に移管されました。1989(平成元)年から特急「くろしお」が、新大阪駅と大阪環状線を結ぶ短絡線として梅田貨物線を走るようになりました。
昔の吹田操車場跡にできた吹田貨物ターミナル駅。梅田駅の機能移転で2013年開業(森口誠之撮影)。
清算事業団は、吹田市と摂津市に吹田操車場跡での新貨物駅設置を打診します。梅田駅の取扱量の85%を吹田で取り扱うとの提案でした。
地元では反対運動が広がりました。ポイントは、
・吹田市と摂津市の要望する再開発構想の空間を確保できるか。
・貨物駅を発着する機関車やトラックの騒音・振動・大気汚染問題は解決できるか。
の2点です。議論は膠着し、なかなか結論は出ませんでした。
問題解決まで20年以上 決め手は?
清算事業団は、先行して梅田駅南西部(西梅田地区)の土地を売却し、 1990年代にハービスOSAKAや大型ホテルなどが完成します。続いて大阪駅の北側にあったJR西日本本社跡地を売却し、ヨドバシカメラが巨艦店をオープンしました。
吹田の新貨物駅について、大阪府や吹田市、JR貨物など関係5者で建設着手の協定書が交わされたのは2006(平成18)年のことです。
吹田操車場跡50ヘクタールのうち、27ヘクタールが新貨物駅用地、残る23ヘクタールが吹田市と摂津市のまちづくり用地とする協定が結ばれました。新貨物駅の取扱量は梅田駅の50%を上限とし、トラックの台数にも制限が設けられました。
残りの貨物機能は関西本線百済駅(大阪市東住吉区)に移転することになり、駅構内や貨物線の設備改良が決定します。大阪市は、梅田再開発の恩恵を受けることを踏まえて受け入れを容認しました。
次々と進んでいった梅田駅の再開発
グランフロント大阪から見下ろした大阪駅地下ホーム工事。梅田駅跡地西部のビル工事はまだ進んでいなかった。2017年10月(森口誠之撮影)。
梅田駅の東側7ヘクタールは、うめきた1期エリアとして先に整備され、2013(平成25)年4月、グランフロント大阪がオープンします。吹田貨物ターミナル駅と百済駅の工事は同年3月に完成し、梅田駅は廃止されます。分割民営化から26年、大阪都心の巨大貨物駅はついに機能を停止しました。
そこから駅西側の貨物施設の解体が行われ、うめきた2期エリア9ヘクタールの整地が始まります。4.6ヘクタールは三菱地所や阪急などに売却され、残りは緑地となります。
また、梅田貨物線(新大阪~新駅~福島)のうち2.3kmは地下線に切り替えられ、「うめきた新駅」(地下ホーム)が大阪駅の北西部に設置されることも正式決定します。
地下化後の貨物列車はちょっと大変に
貨物線の地下化で難航したのは、新駅~福島間の工事です。都心の狭隘な空間を走る地上線の下に地下線を整備するのは至難の業で、完成まで10年かかりました。
地下線の前後は最大23.5パーミルの急勾配があるため、吹田から地下新線経由で安治川口駅に向かう貨物列車は前後に電気機関車をつなぐプッシュプル運転で対応します。また、新駅~福島~西九条間が単線での運行となるうえに、福島駅の隣にある浄正橋踏切での幹線道路との平面交差が解消されないため増発が難しい点は課題です。
大阪駅の西端にある梅田貨物線 西梅田一番踏切と特急「はるか」。都心を走る地平線の姿もあとわずか(森口誠之撮影)。
梅田駅開発構想が浮上して40年以上が経ち、ようやく地下新線と大阪駅地下ホームが完成しますが、新ホームの利用はしばらく少ないと思います。周辺の開発が未完成な上に他の繁華街と離れているからです。
ただ、来年、2期エリア「グラングリーン大阪」にホテルや商業施設が完成し、JR西日本の新ビルが連絡通路の真上にオープンします。2年後に各ビルが全面開業し、8年後、なにわ筋線が乗り入れると、状況は様変わりするでしょう。巨大貨物駅のあった名残が消えた後、街がどのように変貌するのか。今後も注目したいところです。
此処迄はまいにちニュース発乗りものニュース引用
貨物の縮小が無ければ、梅田再開発は無かったと言え、阪急梅田駅の移転は余りにも有名な話とと同時に、国鉄を潜った後の旧駅コンコースのシャンデリアも既に無いのですね。また、輸送力増強の為、阪急梅田駅も北へ後退し、ホーム長を確保したのと、京阪と阪神が大阪市電を介して直通する構想があったのも有名でした。