山田 康雄(やまだ やすお、1932年昭和7年〉9月10日 - 1995年平成7年〉3月19日)は、日本俳優声優司会者テアトル・エコーに所属していた。長男演芸作家山田浩康

 

1959年、海外ドラマ『ローハイド』においてクリント・イーストウッド演じるロディの吹き替えにオーディションで抜擢(ばってきされ声優デビュー。同作のヒットにより「クリント・イーストウッドの吹き替えは山田康雄」と世間から認知されるほど有名になる。

テアトル・エコーでは看板俳優として活躍。特に、1969年以降は『日本人のへそ』『表裏源内蛙合戦』など井上ひさしによる多数の書き下ろし作品で主役や準主役を多くつとめた。トレードマークとなった独特の髪型は、井上の『11匹のネコ』初演のためのもので、以後そのままになったという。

吹き替えでは、クリント・イーストウッドの他にジャン=ポール・ベルモンドも担当。アニメでは、1971年ルパン三世役に起用されて以降、亡くなるまで約23年半演じる代表作となり、自身のライフワークとなった。また、『お笑いスター誕生!!』の司会などテレビタレントとしても活躍していた。

1980年代からはテレビタレントやナレーターとしての仕事が増加し、ナレーション以外の声優業は持ち役の再演や単発のものが多くなる。なお、アニメ出演に関してはこの頃から「ルパンだけ」と決めていたようで、新規でレギュラー出演するオファーは基本的に辞退するようになったという[12]。舞台活動は1978年の『ホーム・ドラマ』から離れており、後年には復帰意欲をみせたものの、結果的にこれが最後の出演となった(声の出演を含めると、1984年の『サンシャイン・ボーイズ』が最後であった)。

 

死去迄の出来事

1993年春、低カリウム血症により入院。この頃から歩行困難で入退院を繰り返すほど体調が悪化し、収録は椅子に座って行う事が増えた。また、自身の死期を悟っているような言動をとることがあった(後述)他、便箋に「ハヤイ ハナシガ イショ(早い話が遺書)」と家族へ感謝を述べた文章を綴り、自宅の机にしまったりしていた。

1995年2月17日午後3時30分、脳出血のため自宅で倒れ、東京都立荏原病院に搬送される。意識不明の入院状態が続き、医師は「予断を許さない」と診断。家族は毎日看病に通い詰めたが、3月18日夜に引き揚げた後に容体が急変、3月19日午前6時35分死去。62歳没。

山田の死を受け、3月20日には日本テレビは朝のワイド番組の内容を変更して『追悼特別企画 ルパン三世の山田康雄さん逝く』を放送。3月31日には追悼企画として『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を再放送した。そのほか、NHKを含む各局も朝のニュース番組などで追悼特集が組まれたが、同日に地下鉄サリン事件が発生。すぐにそちらを報道する編成に変更されたため、その訃報が大きく報じられることはなかった。

Wikipediaより引用

 

1995年3月19日、日本の声優・司会者だった山田康雄さんが生涯を終えられました。

ダーティーハリーの吹き替えやルパン三世、お笑いスター誕生の司会者で有名でしたが、その訃報が報じられた日にあの地下鉄サリン事件が起き、山田さんが亡くなられた事を知る人が少なかったのもこの事が原因でした。

 

登場収録中だったルパンの新作アニメ映画は物真似でルパン三世を演じていた栗田貫一さんが引き継ぎ、以後定着しました。

 

また、寺沢武一原作のSF劇画「コブラ」で作者は山田康雄氏の声を望んでいましたが、製作プロの東京ムービー新社から「ルパンと被る」との事で故・野沢那智氏へ交替となった逸話もあり、その野沢氏もルパン三世2回目のパイロットフィルムでルパンの声を担当しており、因縁を感じます。(最初のパイロットフィルムのルパンは故・広川太一朗氏)

PCエンジンのゲームでは晴れて山田氏がコブラを担当する事になりました。