30年前の今日、山形テレビの臨時株主会議で、後にテレビ界を揺るがす決定が下されました。
1993年3月末日を以てFNS・フジテレビ系列を脱退し、翌日からANN・テレビ朝日系へ加盟しネットチェンジする
と言うものでした。
当時のフジテレビは視聴率トップに君臨する飛ぶ鳥勢いのテレビ界の王者であり、テレビ朝日は「振り向けばテレビ東京」と言われる程人気番組が恵まれていませんでした。


フジテレビ時代のYTSスーパータイム

当然、地元では猛反発が起き、私も当時は同意見でしたが、後に事情を知り、考えを変えました。
本来ならNET(後のテレビ朝日)系で開局する筈だった
山形テレビは元々テレビ朝日の前身NET系マストバイネットになる筈でした。
処が、開局前に内輪揉めが起き、山形の天皇・服部敬雄に相談したら、山新グループに組み込まれ、フジテレビの創業者との懇意でフジテレビ系列にされてしまい、23年間不本意なネットを組まされる羽目になりました。
運命を変えた多角経営破綻とフジテレビの支援拒否
マスメディア資本集中排除の原則を前にFM山形とテレビユー山形の支配に失敗し、バブル期に服部は調子に乗り、初の非山新グループメディアのTBS系テレビユー山形開局に対し、山形テレビに様々な副業を課しますが、それが全て裏目に出、経営が傾く羽目になりました。
服部はフジテレビに経営支援を要請しますが…。
間の悪い事に信隆創業者も春雄会長も既に亡く、当時の会長は興銀(後のみずほ銀行)の頭取を務めた辣腕の婿養子・鹿内宏明であり、しかも金銭感覚に厳しい御方であり、
「経営が傾いたのは自己責任である!」
と言い放ち、経営支援を拒否されました。
失意のまま服部は1991年3月14日に他界。それが、今まで飼い殺された朝日新聞派株主が決起、瞬く間に山形テレビの主導権を握ります。
そして、驚天動地のネットチェンジへ
ネットチェンジの決定打となったとされる出来事は翌年6月に起きたYTS経営陣交替と翌7月に起きた鹿内宏明会長解任と日枝久会長就任で、この時点でフジテレビからの経営支援は当面望めないと判断された様です。
そして、朝日新聞へコンタクトを取り、経営支援を取付る代わりにテレビ朝日系へネットチェンジする案があっさり通る事になるのでした。
朝日新聞派が支配すればそう言う結果になりますが…。
それを聞いた日枝新会長は可愛さ余って憎さ百倍ではありませんが、テレビユー山形に一部の番宣を除き、フジテレビ系番組の番宣を全面的に禁止したのです。
YTS社内でもフジテレビ系からテレビ朝日系へのネットチェンジを疑問視する声が挙がり、「どうしてフジテレビ系を脱退する必要があるのか?」や「テレビ朝日系に移れば経営再建出来るのか?」とネットチェンジを疑問視するYTS社員もいたほどでした。
勿論強引なネットチェンジの代償として、CM拒否等一定期間の経営悪化と言う事態になりました。
しかし、このネットチェンジを期に視聴率が望めない代わりに地域密着を打ち出し、折しもテレビ朝日が他局に追い付き追い越せと飛躍していた時期でもあり時と共にネットチェンジの傷も癒え、フジテレビも山形局復活運動を後押しし、1995年に山形第四民放局の周波数が割り当てられて、1996年2月に山形第四民放局の免許が交付されました。代替局・さくらんぼまでテレビ開局である程度の解決を見ました。

私も当初は反発していましたが、山形テレビの行動を支持した一因に元々テレ朝系で開局する筈がフジテレビ系にされた事を知ったからでした。
色々ありましたが、結果オーライとなりました。