1992年9月24日、YTS・山形テレビの運命を決めた臨時株主総会が開かれた日でした。
その内容は93年3月末日を以て現行のFNS・フジテレビ系列を脱退、翌93年4月1日からANN・テレビ朝日系へ加盟するネットチェンジを断行する事が決定されました。

本来はNET(現・テレビ朝日)系として開局する筈だった

山形テレビは当初、NET(現・テレビ朝日)系のシングルネット局として開局する予定で、朝日新聞や毎日新聞が出資していたほか、開局前の研修もNET(現・テレビ朝日)やMBS・毎日放送で行っていました。
JNN・TBS系列への加盟は地元紙の出資が条件で、テレビユー山形はダミー申請の名残などもあり山形新聞が出資しています。山形新聞の資本を排除するはずだった山形テレビがNET系とTBS系のクロスネットで開局する予定だったのはデマです。
KSB・瀬戸内海放送はNET(現・テレビ朝日)系のシングルネット局で開局する予定でした。山形テレビも山形新聞の資本を排除した上で、NET(現・テレビ朝日)系のシングルネットで開局する予定でした。
処が、当時山形の天皇と呼ばれた山新グループ会長・服部敬雄に相談したら山新グループに組み込まれ、更に服部氏と鹿内信隆フジテレビ社長とが懇意だった為、フジテレビ系列として開局する反面、完全なフジテレビ系列にならない様、敢えて朝日新聞と毎日新聞の株を残しただけでなく、編成もごちゃ混ぜにしました。
服部敬雄は「山形のナポレオン」、「山形のヒトラー」の異名があり、山形の全て思いのままに操りました。その力を見せ付けた出来事と言えます。
(2024.3.13・山形のはっちゃんさん指摘の上訂正)
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まさかの事が起きた山形テレビ
バブルで運命が狂う
バブル期に調子に乗り、バイオ科学研究所を設立し、不振にも関わらず、FM山形とテレビユー山形の相次ぐ開局に反対、妨害するも阻止出来ず、更にハリウッド映画、OVA、クルーガー金貨の発売等多角経営を広げるも全て失敗し、経営が傾く事になりました。
服部氏は当時フジテレビの会長だった鹿内宏明氏に経営支援を要請しますが…。

既に冷え切っていたFNSとの関係
しかし、宏明会長は信隆創業者の婿養子で現在のみずほ銀行出身で金銭管理や上下関係に厳しい人物として有名であり、「経営が傾いたのは自己責任である」として、YTSへの経営支援を拒否しました。
失意のまま服部氏は91年3月14日に逝去し、是を期に朝日新聞派株主と関係者が決起、YTSの副業を次々に廃業しました。
決定打となったのは、92年6月にYTSの当時の社長と会長を「経営悪化の責任」を理由に解任し、朝日派の社長を据えた事と、92年7月22日の宏明会長失脚・日枝久社長就任のフジ・サンケイグループのクーデターで、日枝社長は体制固めに注力し、YTSへの経営支援は宛にならないと判断。
そこで、山形テレビの筆頭株主だった相馬大作元酒田市長は、テレビ朝日へのネットチェンジを提案、呆気なく通るのでした。
テレビ朝日も「うちとYBCのネット関係はどうするのか?」とYTS関係者に質問したほどでした。
これに対し相馬氏は「元々はYTSはテレビ朝日の前身NET系になる筈が、服部氏の横槍でフジテレビ系列にされてしまった」と釈明。当時のYBCよりも条件が改善されるシングルネットで組む事で合意。史上稀に見るネットチェンジが実現する事になりました。
YTS社内でもフジテレビ系からテレビ朝日系へのネットチェンジを疑問視する声が挙がり、「どうしてフジテレビ系を脱退する必要があるのか?」や「テレビ朝日系に移れば経営再建出来るのか?」とネットチェンジを疑問視するYTS社員もいたほどでした。

ネットチェンジの功罪
このネットチェンジの功罪を纏めれば
功 ごちゃ混ぜクロスネットが解消され、プロ野球中継の延長や特番完全放送が可能になった。
  ネットの縛りで出来なかった地元完全オリジナル番組の放送が可能になり、地域密着が強化された。
  編成の自由度が増した。
罪 フジテレビから番組販売番組が殆ど禁止された為、テレビユー山形で一部の番組しか放送出来なかった。
  山形テレビの視聴率が落ち一時期経営が悪化した。
  97年にさくらんぼテレビが開局するまでフジテレビ系列の空白地域が出来てしまった。
丁度1年半前に青森で(ここも青森テレビがTBSに取られた)、半年前に秋田で相次いでテレビ朝日系系列局が開局し、折りしもネットワーク拡大運動とも重なり、製作能力の高い地方局・YTSのANN加盟はその後のANNに少なからず影響を与えるのでした。