この記事を今日書かずして何時書くでしょうか? 30年前の今日、所謂平成新局のトップバッターとなったテレビ北海道、テレビユー山形、熊本朝日放送がそれぞれ開局した日でした。





テレビ北海道 テレビ東京系


北海道第五民放局は1985年に構想され、176件の免許申請がありました。



テレビせとうちの四国に続くTXNの北海道進出局でしたが、TXNは都市部ネットワーク局の為、北海道と言えども当初は当初は道央エリアのみでしたが、1991年に旭川中継局が開局、1993年に室蘭中継局と函館中継局が開局、2011年に釧路中継局・帯広中継局・網走中継局・北見中継局が開局して全道放送を実現しました。

そして、1年半後に開局した福岡のTXN九州(現・TXN九州放送)が最終ネット局となりました。




テレビユー山形 TBS系
山形第三民放局は1985年に構想され、159件の免許申請がありました。免許申請者の中には山形新聞のダミー申請も含まれていました。
当時日本テレビ系とテレビ朝日系とのクロスネット局だったYBC・山形放送と、フジテレビ系にも関わらず日本テレビ・テレビ朝日・テレビ東京の番組も組まされたYTS・山形テレビが二局共山形の天皇・服部敬雄山新グループ会長に独占されており、更なる独占を目指すも、マスコミ報道の公正化の為、初の非山新グループ放送局として開局。TBS自身、YBC・YTSと二度も山形進出を阻まれただけに、「三度目の正直」で山形進出を果たし、無念を晴らしました。


TUYテレビユー山形は服部天皇率いる山形新聞グループと庄内地方の経済界による主導権争いがありました。山形第三民放局の割り当て時には山形新聞グループはダミー申請を行った上で内陸部の経済界と共闘して山形市に本社を置くことを希望したのに対し、庄内地方の経済界は「山形県第三民放テレビ局庄内誘致推進協議会」を組織しました。庄内地方の経済界の誘致活動の成果でTUYテレビユー山形の本社は酒田市に置かれました。TBSはTUYテレビユー山形の本社を山形市に置くことを希望していました。

(2024.1.29・山形のはっちゃんさん指摘)


服部天皇は郵政省(当時)の調停案に猛反発したためにTUY・テレビユー山形やFM山形の開局には一時的に反対しましたが、山新グループの広告代理店・山形アドビューロの設立を条件にTUYやFM山形の開局を容認しました。


山形新聞はダミー申請の関係で山形第三民放局に関する記事を1987年頃から掲載していて、テレビユー山形やFM山形の開局決定に関する記事も掲載していました
TUYの設立祝賀会には相馬健一・山形新聞社編集局長(当時、後に社長)、吉田劼夫・山形放送副社長(当時、後に社長)、今野秀孝・山形テレビ社長(当時)が地元マスコミ代表として出席しました。

(2024.2.29・山形のはっちゃんさん指摘)

山形初の完全マストバイネット局の為、自由な編成が組め、山新グループにCMを打てなかったホテルキャッスルは専属のお得意様を得た一方、山新グループはTUYにCMを一切流さない報復を行いました。


止せば良かったのに、服部会長は当時進めていたYTSのサイドビジネスを広げては失敗し、経営が傾き、フジテレビ会長に経営支援を要請するも門前払いを受けました。
そして1年半後に服部会長は急死、飼い殺されていた新聞社の株主が逆襲、93年にYTSがテレビ朝日系へネットチェンジする思わぬ副作用を招きました。
YTSで放送出来なくなったフジテレビ系番組の一部をTUYが引き取り、97年の後継フジテレビ系局SAY・さくらんぼテレビ開局までのリリーフを務めました。
そして、山形テレビは2006年に山新グループから脱退し、漸く本来の独立放送局になりました。


此方は開局時の初代局舎
此方は二代目の現局舎
熊本朝日放送 テレビ朝日系
弱小ネット局だったANN・テレビ朝日系の記念すべき平成新局第一号で、平成のテレ朝躍進はここから始まったと言えます。

分かり易い内容をコンセプトにした「ニュースステーション」を旗印に、テレ朝は「10年で10局作る」をスローガンにネットワーク拡大運動を開始。当初は全23局の予定だったのが、先の山形テレビ編入を含めた全24局へ増え、テレ朝平成新局は4局運動と連動し飛躍しました。

1981年3月24日に日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日の経営陣の会談で熊本第三民放局を日本テレビ系フルネットにすること、将来的に熊本第四民放局をテレビ朝日系フルネットで開局させた上でテレビ熊本をフジテレビ系フルネットにすることで合意しました。

KAB熊本朝日放送はTKUテレビ熊本のクロスネット解消させました。TKUテレビ熊本は1989年9月まではフジテレビ系列とテレビ朝日系列のクロスネットでしたが、番組編成はフジテレビ系列がメインでした。熊本第四民放局は1984年に周波数が割り当てられました。
そして順調に行っていれば熊本第四民放局は昭和末期の「1987年」に開局する筈でした。
処が、熊本第四民放局は482件の免許申請があった為、免許申請者調整に時間が掛かり、平成迄ズレ込む羽目になりしました。
(2024.1.29/3.4・山形のはっちゃんさん指摘)

熊本地区の4局化を達成しただけでなく、ニュースステーションは熊本朝日放送の看板番組となり、今と違い平均的なラインナップで視聴者から親しまれ、半年後にNCC・長崎文化放送が開局し、半年で二局も増えた事と隣接地区に系列局が増えたのに、後の91年と93年にそれぞれ3局増えたのに次いで驚きました。 
91年秋開局のABA・青森朝日放送も75年春にATV・青森テレビを泣く泣く失ってから16年目の復活となり、翌92年のAAB・秋田朝日放送開局、翌々93年の山形テレビ編入と3年連続東北進出と秋田と山形は熊本と長崎と同じ半年連続だったのに因縁を感じます。
稚拙な文書ですが、平成最初の新局を思い出して戴ければ幸いです。