多角経営破綻と、それに対するフジテレビへの支援要請を拒否された事に端を発した山形テレビネットチェンジ騒動。

当時、フジテレビは東京・お台場のフジテレビ新社屋の建設準備で資金面に余裕がなかった為「YTSへの経営支援を取り付ける条件として、恒久的にFNSへの従属」を要求。
処が、それを聴いたYTS経営陣が反発するの「経営が傾いたのは自己責任である」として、YTSへの経営支援を拒否し、此処にフジテレビと山形テレビとは決裂を迎えました。




1975年から五年間テレビ朝日とのクロスネットだった事、開局当初前身のNETマストバイネットで開局予定だった事、朝日新聞が主要株主だった事から、テレビ朝日系へのネットチェンジの伏線はかなり以前からあった様で、天敵だった山形の有力者の死とバイオ科学研究所閉鎖を期に経営陣が交替し、様々な事が起きこの結果になりました。
一方で、YTS社内でもフジテレビ系からテレビ朝日系へのネットチェンジを疑問視する声が挙がり、「どうしてフジテレビ系を脱退する必要があるのか?」や「テレビ朝日系に移れば経営再建出来るのか?」とネットチェンジを疑問視するYTS社員もいたほどでした。
一番肩身の狭い思いをしたのはフジテレビ及び産経新聞派の勢力と関係者で、キー局に見捨てられた事と経営悪化の責任を取らされ、粛清されていなかったか気掛かりで、別視点から観れば恐ろしい事があったのかも知れません。
また、テレ朝の番宣が情報番組やワイドショーばかりで、願わくばドラえもんやクレヨンしんちゃんやセーラームーンも欲しかったです。
山形テレビのネットチェンジでフジテレビ系番組の大半が山形県から姿を消したことで山形県民の不満が噴出し、フジテレビ系第四民放局の開局を求める署名運動にまで発展しました。
後にさくらんぼテレビとなる山形第四民放局の周波数は1995年に割り当てられて、1996年2月に山形第四民放局の免許が交付されました。
1997年4月1日にさくらんぼテレビが開局し、山形県民の悲願が達成したのと同時に、日枝久フジテレビ社長(当時)も山形テレビを助けることが出来なかった無念を張らすことが出来ました。