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1991年3月14日、山形の天皇と呼ばれたフィクサーが生涯を終えました。

その名は服部敬雄で山形交通・山形新聞と山形内陸部の交通網とマスメディアを我が物とた稀有な存在でした。その辣腕は「山形のナポレオン」、「山形のヒトラー」の異名を得る程でした。

服部会長の絶大な権力を物語る功績と罪は以下の通りです。
功績 
1・山形大学に医学部を設置
2・山形空港の開港

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3・初のミニ新幹線・山形新幹線の誘致成功
功績にして罪

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1・山形花笠祭りを作った反面、最上義光を歴史から抹殺し、義光祭を葬る
2・テレビ局を自分に都合良くネットを操作。

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TBS系になる筈だったYBC・山形放送を日本テレビ系に、


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NET(現・テレビ朝日)系になる筈だったYTS・山形テレビを発起人のゴタゴタを利用して強引にフジテレビ系列にそれぞれ編成し、しかもどちらも完全に日テレやフジ系にならない様に操作する


3・YBCで11PMのネット禁止を命じるも、これは教育局免許だった他のNNN系列局も同時期に同様の措置を取っていた

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4・系列局を無視して西部警察全国縦断ロケを誘致するも、名作となる
罪 
1・山新グループに労働組合を作らせず、交通労連に加盟したままで、バスで遅刻した社員を不当解雇した
2・宮城県との県境を強引にいじり、ロープウェイを開通させた
3・YTSのクルーが取材に遅れYBCからVTRを借用したのがバレ、関係者を不当更迭
4・系列の山形グランドホテルのイベントばかり誘致・報道し、ライバルのホテルキャッスルに広告やイベントを誘致させ無かった

5・山新グループがフランチャイズした不二家レストラン以外の外食チェーンとコンビニの排除

6・服部会長の記事を書いた朝日ジャーナルの買い占め


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7・ユニコーンのアルバム服部の買い占めと入荷禁止

と、同じ日本でこんな事が起きていたのにはビックリと同時に、西部警察の山形ロケは83年夏収録・同年秋放送から逆算して当初は同年秋開局した新潟テレビ21開局記念の新潟ロケが差し替わったと思われ、公衆の面前で石原裕次郎石原プロモーション社長が服部会長に頭を下げた逸話もあります。 
 やがて服部会長の独裁を覆す出来事が起きるのでした。
運命を狂わせたTUY開局とYTSの多角化

昭和末期に山形マスコミの異常性に郵政省は漸く重い腰を上げ、山形FMラジオ局と第三民放局の免許が交付され、山形第三民放局と山形FMラジオ局は山形新聞もダミー申請を行ったものの、マスコミ資本集中排除の原則を前に資本参入は叶わず、前者はFM山形として、後者はTBS系テレビユー山形と決まり、TBSにとってはYBCを逃しただけ今度こそ山形進出を果たしました。


山形のマスコミ全てが報道したものの、開局は平成元年まで待たなければなりませんでした。


服部会長はFM山形とTUY開局に危機感を抱き、YTSに医薬品や健康食品の販売、ハリウッド映画の出資、OVAの製作、クルーガー金貨の販売等東名阪テレビ局も真っ青の多角経営を行いますが…。
夢破れ失意のまま生涯を終える
YTSの多角経営は悉く失敗し、特にハリウッド映画「リ・アニメーター」をフジテレビに売り込もうとしたら、余りにも猟奇的な内容で放送出来ないと断られ、代理店へ返却しようとしたら業者に逃げられ、止めは懇意の仲の筈だったフジテレビの会長が金銭管理の厳しい婿養子・鹿内宏明に交替した為、経営破綻の支援要請も断られてしまいました。

負債も当時25億円になり、強引且つ執念で誘致したべにばな国体と山形新幹線の開通を翌年に控えた1991年3月14日、服部会長は失意のまま生涯を終えました。


YTSの多角経営で晩節を汚した反面、山形新幹線の一番列車を観られなかったのは本当に無念極まりなかったでしょう。

服部会長の死後、YTSは生前恐れていた朝日新聞&朝日派株主&テレビ朝日の逆襲を受けるとは思いも寄らなかったに違いありません。