成田空港アクセスが北総線メインになった為、千葉線のテコ入れが可能になったかも知れず、最近の沿線誌でも千葉地区へのクローズアップも増えました。


そこで、輸送力に余裕が出てきましたので、千葉線の輸送力改良を検討すべき時期が来たかも知れません。

イメージ 1

京成千葉・千原線の路線図

イメージ 2

千原線配線図
千原線の原点
千原線の原案は小湊鉄道の千葉乗り入れ路線として計画され、1955(昭和30)年1月に本千葉~海士有木間の免許を申請し、軌間1067(国鉄→JRの狭軌と同じ)・動力 蒸気・内燃(気動車・ディーゼル機関車)非電化で申請し、1957(昭和32)年12月に認可が下りました。
しかし、その後小湊鉄道の経営事情等で計画が進展せず、親会社の京成電鉄が千葉線を千葉ニュータウンのアクセスとして延伸したい意向を示し、小湊鉄道が持っていた免許を譲受し、軌間1435(新幹線と同じ広軌)・動力直流1500V電化へ変更し、1970(昭和45)年4月に認可が下りました。その後、京成側も当時の成田空港関連投資や経営悪化で新線建設の体力が無かった為、1973(昭和48)年に2月に京成と小湊鉄道が出資した千葉急行電鉄を設立し、7月に千葉急行電鉄へ免許が譲渡されました。

イメージ 3

初代所持車両1000形


イメージ 4

二代目所持車両3050形 

イメージ 5

三代目所持車両3100形

イメージ 6

最終所持車両3150形
様々な思惑に翻弄された千原線
しかし、その後、オイルショックや千葉ニュータウンの入居率も上がらず、建設費の割には採算が取れない事を理由に千葉急行電鉄線は度々建設が見送られ、今思えば京成が建設を渋ったのも納得で、昭和40~50年代の経営事情もあり、新線処ではありませんでした。
鉄道を引かなければ千葉ニュータウンの入居率が上がらないと要望があり、1992(平成4)年4月に京成千葉~大森台間が開通し、設立20年目で千葉急行電鉄は漸く鉄道路線を開通させました。
但し経営体力が無かった為単線で開通し、車両も京成が京急からリースされた京急1000形4両1本を再リースを受けました。その後リース車両も京成3050形になり、1995(平成7)年4月に大森台~ちはら台間が単線で開通しました。
しかし、京成と直通するのは普通だけで、特急や急行との接続が悪かった為、千葉急行電鉄の業績が悪化し、リース車両も京成3050→3100→3150と交替するも3150形は6両しかリース出来なくなる程業績が悪化しました。
そして1998(平成10)年9月30日千葉急行電鉄の営業は終了し、翌10月1日から京成電鉄が経営を引き継ぎ、京成千原線として再出発しました。
千葉急行電鉄の解散で資産は一旦日本鉄道建設公団が引き取り、それらを京成グループが450億円で関連自治体が50億円で引き取り、京成グループにとっては再び大きな負債を抱える羽目になりました。
その為、京成千原線が別料金扱いになっており、乗り入れ相手の地図にも省略されているのもこの影響かも知れません。

イメージ 7

6両編成が多い現在の主力3000形がよく走る
千葉・千原線の問題点
千葉・千原線の問題点は
1・普通しか走っていない
2・データイムは新京成電鉄の片乗り入れのみ直通がない
3・千原線が旧千葉急行から引き取った為、運賃が別系統と債務が残っているのと全線単線である事
4・京成津田沼~京成千葉間のホームが6両対応しかない
事です。

個人的な対応策は
1・京成千葉~ちはら台間の複線化とちはら台車両基地の設置
2・複線化と同時に新京成線の直通をちはら台迄延長する
3・本線や千葉線の6両ホームを8両へ延長し、それに関連して、京成幕張は地上のまま待避駅に、京成稲毛は高架待避駅に、地上駅で延長不可能な区間を高架化、千葉中央駅と学園前駅も待避駅にする
4・上野~ちはら台間、または都営地下鉄直通羽田空港~ちはら台間に特急、または快特を設定し、可能なら新京成線は千葉・千原線内急行運転を希望
停車駅は
A案・京成津田沼、京成幕張本郷、京成稲毛、京成千葉~ちはら台間各駅停車
B案・京成津田沼、京成幕張本郷、京成稲毛、京成千葉、千葉中央、学園前、ちはら台
のどちらかで、成田空港アクセスが一段落した今、改めて千葉地区の強化を考える時期が来たかも知れません。