静かな山の中腹の静かな村に、交番が一つ在りました。
たった一人の駐在さんは、通りが見える交番の座敷で碁盤を前にして、白い石と黒い石を、パチリパチリと打ってます。今日も、一人で打ってます。
駐在さんは、この春に奥さんと村に移って来たのです。
駐在さんが扱った静かな村の主な事件は、罠にかかった小ダヌキを助けて放してやったのと、いつも勝手に放されるゴン助じいの飼い犬が、近所の犬と喧嘩して大騒ぎになったとき、おっとりがたなで駆けつけて引き離してやったことくらいでした。
駐在さんは、今日も碁石を打っています。
駐在所の坂の上には、近頃、洒落たペンションや別荘が幾つか建ちました。
ある夏の暑い日の事でした。
静かな村の駐在所に、男の人が訪ねて来ました。
この頃、とんと流行らない山高帽子をかぶっていました。
「今日は、駐在さん。良いお天気ですね。」
「はい、今日は。何かご用がありますか。」
「別に用事はないのですが、駐在さんは、囲碁がとてもお上手と聞きおよびまして、ぜひ一局、お手合わせ願えたらと、伺いました。」
「それはそれは、良くいらっしゃいました。なに、私のはヘボ碁でしてね。ただ、好きなだけですよ。まずは、こちらへお上がり下さい。お帽子は、どうぞその窓ぎわの机の上に置いて下さい。」
駐在さんは、通りの見える座敷の入り口に、いつも碁盤を置いていました。
座ぶとんは二枚、むかい合わせに敷いてありました。
きっと、相手がほしかったのでしょう。
二人は、碁盤を間にしてパチリパチリと打ち出しました。
しばらくすると奥さんが、湯のみを二つ、お菓子を二つお盆にのせて持って来て、二人の横に置きました。
「どうぞ召し上がって下さい。ごゆっくりどうぞ…」
お客様はゆっくりと黙って頭を下げました。奥さんは、奥へ入ります。
ポーっとお昼の時報が鳴りました。
奥さんが、お茶とおにぎりを持ってきて、二人の脇に置きました。
「どうぞ、召し上がれ…」
お客様は、黙って頭を下げました。
奥さんは、空になった湯のみと、お菓子の盆を持って奥へ入って行きました。二人は黙って打ってます。
夕方になりました。
「では、これで失礼いたします。明日、またうかがってもよろしいでしょうか。」
と、男の人が言いました。
「どうぞ、そうぞ、ぜひいらしてください。」
と、嬉しそうに駐在さんが、言いました。
丁寧に山高帽子頭にのせて、男の人が帰ります。
坂を登って行きました。
きっと別荘の人なんだなと、駐在さんは思いました。
別に、名前も聞きませんでした。
それからというものは、ほとんど晴れの日は毎日、男の人がおりました。
静かな村の駐在所の駐在さんの碁盤の前に…。
秋が近くなりました。
ある日の事です。ゴン助じいの鎖を離れた飼い犬が、いつものようにウロウロと通りを歩いてやってきました。
駐在所の前を通りペンションの方へ行くつもりでしょう。
ペンションの客が、時々パンやクラッカーを食べさせてくれるからです。
ゴン助じいの飼い犬が、駐在所の前を通りかかりました。
駐在所の窓ぎわの机の上には、いつものように山高帽子がのってます。
碁盤の前では、いつものように二人が碁石をうってます。
ゴン助じいの飼い犬が駐在所を何気なしにふと見ると、男の人のズボンのポケットから何か突き出して、動いているのが見えました。
ゴン助じいの飼い犬は、てっきりネズミだと思い込みワンワンワンとと吠えたてて、いきなりガブリとかみつきました。
「わあ!!何だ、何だ!!」
と、駐在さんはあわてて碁盤をひっくり返し、あたり一面石だらけ!
白石黒石ガンゴロ、ガンゴロ、それはそれは大さわぎ!
騒ぎを聞いて奥さんが奥から出てきて言いました。
「あら、あら、あなた変ですよ。タヌキが家におりますよ。」
ゴン助じいの飼い犬は、タヌキの尾っぽにかみついて、あっちへよろよろ、こっちへよろよろ。
だって、タヌキはとても大きかったのです。
大きなタヌキは、悲しそうに駐在さんを見ています。
駐在さんは、飛んでってゴン助じいの飼い犬を、タヌキの尾っぽから引き離し、綱をかけてしっかりと駐在所の柱にしばりつけました。
「すいません。大変ごめいわくをおかけしました」
と、大きなタヌキが駐在さんにあやまりました。
「なんの、ゴン助じいがいけないのです。いつも、犬を放し飼いにしてはいけないと、厳しく言ってあるのに、これは規則違反なんです。あー、しかし、あなたは、どなたなのかな」
「今年の春、罠にかかった私の孫を、あなたが助けて下さった。私は、あの子ダヌキのじいなのです。その折りは、大変お世話になりました。ありがとうごさいました。」
「ああ、そうですか!いやぁ、これに懲りずにこれからも、どうぞ碁を打ちにいらして下さい。私は、別に、タヌキでもちっともかまやしませんから。」
「はい、ありがとうございます。ご迷惑でなかったら、又お相手をさせて下さい。今度お訪ねする時は、別の姿で参ります。」
と、タヌキは帰って行きました。
自分の犬の鳴き声に駐在所までやってきたゴン助じいが見てました。
「ありゃ 、タヌキでねえか。なんとなんと、駐在さんは、タヌキと囲碁さ打っとったんだな」
ゴン助じいは、犬を放し飼いにしてはいけないと、いつも駐在さんにしぼられるので、悔しくて悔しくてたまりませんでした。
ゴン助じいは、村中のあちこちで村人に話しました。
「おめぇ、知とるけ。駐在さんはよ、でっけえタヌキと碁さ打っとったんだぞイ。」
しかし、誰も信じてくれません。
日ごろいじわるばかりするゴン助じいは、村の嫌わ者でした。
この話をしたばかりにゴン助じいは、ますます、嫌われ者になってしまいました。
静かな山に冬がきました。駐在所の窓ぎわの机の上に、山高帽子は見えません。
でも、駐在所の通りの見える座敷の入り口では、駐在さんが、今日も一人で碁石を打っています。
小さな赤いストーブの炎がチロチロ揺れています。
碁盤の前の座ぶとんに、タヌキのような尾っぽをつけた、大きなネコが座っています。
碁盤の向こうのお盆には、湯のみが二つのっていて、お菓子が二つありました。
駐在さんの大きな猫は、時々居なくなるのです―。
おしまい![]()