相澤 白樹

相澤 白樹

カウンセラー、コンサルタント、風水、真言密教の僧侶

葬儀の夜は、明け方まで誰かのすすり泣く声が聞こえていた。


けれど朝課(ちょうか)の鐘が鳴る頃には、寺はいつもの、冷たくてよそよそしい静寂を取り戻していた。

正観さんの席は、空(から)だった。


そこに誰も座っていないという事実が、昨日までの出来事が現実だったことを、改めて突きつけてくる。

胸の奥が、ぎゅっとなる。

 

人生って寂しいもんだべな。

和尚さんが言う通り、人は一人で生きて、一人で帰るのかもしれない。

 

寂しいのに、寂しくねぇ顔して生きてる奴もいる。
こんなはずじゃないって、もがいてる奴もいる。

 

寂しいから、人は輝きたくなるのかもしれねぇ。
寂しいから、誰かに見てほしくなるのかもしれねぇ。

 

……そう考えると。

寂しさを知っている奴って、すごいんじゃねえかな。

寂しさを知っている奴は、きれいなんじゃねえかな。

 

俺は、そう思うんだ。正観さん。

 

雑巾を絞って、本堂を磨き続ける。

手には、いつの間にかアカギレができていた。

 

俺はいつも、人の目ばかり気にして生きてきた。
どう見られてるか。
嫌われてねえか。


価値があると思われてるか。

でも、もうどうでもよくなっちまった。

 

人は、突然いなくなる。

 

磨ききった雑巾を、もう一度バケツに沈める。

冷たい水が、割れた指先に刺さった。

 

「りょうしゅう。托鉢に行くぞ」

振り返ると、円龍和尚が立っていた。

俺たちの朝は、三時に始まる。 せんべい布団から這い出し、身支度を整えて、お経。そして座禅だっちゃ。

 

いつになったら慣れんだべな。蓮華座(れんげざ)こそ組めるようになったけど、座禅の静寂の中では、すぐ、うつらうつらしてまう。

 

お腹減ったな。今日はまた麦粥だべか。漬物はあるんだべか……。 隣では淡雪がしたり顔で座禅を組んでるけど、こいつも全く悟ってねぇな。俺に謝ってもいねぇし。 眠気は本当に辛い……。ああ、おっ母(おっか)が見える……。おっ母、抱っこ……。

 

「ッッ!!」

ビシッと肩を打たれ、飛び起きた。あ〜いてぇ! 姿勢を正すけど、ものの二分でまた、とんでもねぇ眠気が来るんだい。

 

あ〜だめだ、本当に。なんでこんなに眠たがりなんだべ。 俺が一番若いから、一番眠いだけだっちゃ。本当だ。また来たよ、眠気のお化けが……。あ〜連れていかれる……。

 

ビシッ!

 

今度は背中だ! あ〜痛い! 隣で淡雪が、合掌しながら嫌らしく笑ってる視線を感じる。

 

——寝るな。呼吸に戻れ。 円龍和尚の目が、そう語っている。

俺だけ強めに叩かれてねぇか? 気を取り直して肩を上下させ、静かに呼吸へと戻っていく。

 

座禅は、心が落ち着いて頭がスッキリするときもあるけど、時たま不思議な世界に放り出されていくような感覚になるときがあるんだ。 これが、和尚の言う「仏の世界」なんだべか。

 

走馬灯みてぇに記憶が走り出す。
呼吸の奥から、あの家の匂いが立ちのぼる。

 

気づくと、俺ぁ里山の故郷(くに)の家の中にいた。 茅葺(かやぶき)の家。囲炉裏の前には、俺と、兄貴とお父(おど)。 懐かしい家の風景だっちゃ。

 

竈(かまど)でおっ母が飯を作ってる。お父はいつも通り、おっ母にごしゃいで(怒って)いた。

 

お父とおっ母は、いつも金のことや仕事のことでごしゃぎ合ってた。お父は毎日のようにおっ母を蹴り、殴り、家中が大騒ぎ。 でも、俺ぁ殴られそうになると、おっ母はいつも体を張って、泣きながら俺を庇ってくれた。

 

目の前のおっ母も、お父に足蹴にされて涙してた。 「他の男に色目使ってんじゃねぇのか!」 腹におっ母の子がいるっていうのに、お父は金のことや男のことになると目の色が変わった。あの足蹴が原因で、おっ母は流産して臥せってたっけな……。「のろま」「どんくせぇ」「めんこくねぇ」……罵り騒ぐお父の姿が映る。

 

おっかねぇ毎日だったべな、おっ母……。

 

けれど、怒鳴っているお父をじっと見つめていると、お父が震えているのに気づいた。 泣いているような目をしてる。

何かに追い詰められた獣の目みてぇだった。でもそのとき、はじめて思った。

 

——お父も、怖かったんだべか。

 

俺は気づいたら、映像の中のお父の頭を撫でていた。

さっきまで詰まっていた息が、すっと通った。

 

そのとき、お父の背丈が、少しだけ小さく見えた。

 

むせび泣いているおっ母に目を向けると、胸が締め付けられた。 何もできなかったあの頃の俺の苦しさが、胸を這い回る。俺ぁおっ母の傍に寄って、その背中に手を置いた。

 

おっ母。本当はおっ母は誰よりも綺麗だっちゃ。誰よりも優しい。 おっ母が生きててくれるだけで、俺ぁ嬉しいんだ。祈ってんだ。毎日、笑顔でいてけろって。

 

おっ母が綺麗過ぎたのかもしれねぇ。

 

おっ母、めんこいよ。お父の言葉を真に受けちゃだめだっちゃ。 飯もうまい、沢山働く、子供を大切にする。本当、日本一の母ちゃんだ! こんなお父から逃げずに今まで来たんだから、本当に偉いよ。俺ぁ、おっ母が大好きだ。

 

気づいたら、涙が頬を伝って流れていた。

 

——カチッ、カチッ。

拍子木の音が聞こえて、座禅が終わった。俺ぁ不思議な世界に行ってた……!

 

前に和尚に尋ねたら、「即心是仏(そくしんぜぶつ)」……この心こそが仏だ、と言っていた。 この息、この苦しみの中に仏があるんだと。

 

 ……でも、お父の頭の、あの感触だけは残っている。

あれが仏だっていうなら、仏様ってのは、案外、近所に住んでるおっちゃんみてぇなもんかもしれねぇ。。

 

朝飯は、麦粥と大根の漬物だった。 あ〜、うまい……。全身全霊で食べる。 「箸が揃ってねぇぞ!」と先輩から喝が入る。箸の先を揃えて食べるのがルールなんだべ。箸の先を揃える。


誰かの横顔が浮かんだ。
筆先を、何度も整えてから紙に向かうあの横顔だ。

 

箸を正して、黙々と食べる。 実家では箸を揃える余裕も、飯を味わう余裕もなかった。でも今は、叱られながらも一粒一粒の味がわかる。皮肉だっちゃね。

 

その後は、剣道の打ち込み稽古だ。 運動すると体が温まるし、ここでうさを晴らしてやるぜ!

 

道場には三十人。異様な熱気がむせ返る。 型の練習を終えたら、ここからが本番だっちゃ。

 

居合の雄叫びを上げながら、皆が向かってくる。 最初の頃はぶるぶる震えてたけど、今は楽しい。 思いっきりいったるで!!……と思った瞬間に、バシッと肩を打たれた。 まだタイミングが悪い。

 

気持ちだ、気持ち……! 次はバシッと頭に竹刀が。

次は胴を狙うんだ、胴を……。踏み込むけど、簡単に払われて、面に持っていかれる。

 

 次は淡雪だ!! こいつだけは許さねぇ……。 燃えて燃えて、淡雪が入ってきた瞬間に、「かよ(淡雪がいつも寝言で呼ぶ女の名前)」と呟いた。 油断の隙ができたところ、渾身の力を込めて、あいつの胴を打ってやった。

 

「ッシャーー!!」

 

「空だべ、空」とか言ってやりてぇ。さっきまで居眠りしてた俺だけどな。でもぐっと堪えて一礼した。

 

淡雪が睨んできたのを先輩が咎め、「勝敗に感情を出すな」と注意されてる。

 

たまらねぇ!!

 

……ま、稽古の後、また淡雪にボコボコにされたのは言うまでもねぇけどな。

 

休憩中に外で寝転んで休んでいた時、とても気持ち良い風が自分の顔をなぞる。

 

お父、あの時の頭の感触、忘れてねぇぞ。 おっ母、俺、頑張っているよ。剣道も絶対、いぎなり(とても)上手くなるからね。

 

次は淡雪の鼻をもっとちゃんと明かしてやる。

 

空を流れる雲を見ながら思った。

もう、あの目は怖くねぇ。


俺は、ゆっくり息を吐いた。

今度はちゃんと、自分の息だった。

 

それでもまだ、胸の奥のどこかがざわついていた。

 

雪の朝だった。
寺中がざわついていた。

 

寺に来たばかりの若い坊主、正観(しょうかん)が、崖の下で見つかった。

冷たくなって。

 

崖の上には花が咲いていた。
それを摘もうとして滑った、と言う者もいた。
いや、自ら落ちたのだ、と小声で言う者もいた。

 

ほんとのところは、誰にもわがんね。

 

でも、馴染めてねぇことだけは一目瞭然だったっちゃ。

 

正観さんは、いぎなり字が綺麗だった。

俺ぁ、よく隣に座ってた。。

 

正観の字は、雪の上を歩く足跡みたいに静かだった。字を書き終えるたび、正観さんは小さく息を吐いた。

 

俺は、その音が好きだった。

寺の中で、あの息だけは、
誰にも邪魔されねぇ気がした。

 

俺ぁいつも生意気に言ってたんだ。「もっとごしゃげ(怒れ)! 嫌なことは嫌だって言え! もっと図々しく、遠慮なく生きてけろ!」って。 でも正観さんは、いつも困ったように笑ってるだけだったっちゃ。

 

クソ坊主どもに仕事押し付けられて、嘘までつかれて、いぎなり大変そうだった。あんなバカどもを立てて、頭下げて……。 「笑っても黙ってもダメなんだい! ああいう奴らにはぶつかるしかねぇんだ!」 俺ぁ熱くなって言ったっけ。

 

これから二人で喧嘩のやり方や剣道の稽古して、強くなっぺって約束してた矢先のことだった。

 

俺には、正観さんの後ろに、いつも薄い光が差しているように見えていた。

冬の日でも、あの人の背中だけはあたたかかった。

 

けど、正観さんの実家から手紙が届いたあの日——
その光が、すっと引いた。

 

ほんのわずかに。

気のせいだと思った。

思おうとした。

 

「俺は、役立たずらしいです」

正観さんは、笑って言った。

 

その笑いは、いつもより薄かった。

溶けていく雪よりも、薄かった。

 

俺は、そのとき気づかなかった。

あの人の呼吸が、
前より浅くなっていたことに。

 

字を書くときの、あの静かな息遣いが、
どこか遠くなっていたことに。

 

俺は、何も言えなかった。

 

その二日後、正観さんは死んだ。

 

俺ぁ、横たわる正観さんの手を取った。死に顔は、驚くほど穏やかでめんけぇ(綺麗な)顔だった。 

 

正観さんは筆を持つとき、必ず一度だけ指先をこすった。
寒いのかと思ったけど、たぶん癖だったんだべな。
あの指先は、いま、冷たい。

 

なして、死ぬんだよ。

なして、俺より先に。

 

悔しくて、悲しくて、涙止まんねぇだい。 心臓をギュッと掴まれたみたいに、体がぶるぶる震えた。そんなに長い時間一緒にいたわけじゃねぇのに、魂がちぎれそうだった。不思議だっちゃね。

 

葬儀が一段落したとき、円龍和尚が皆の前で静かに語り出したんだ。

 

「人は空(くう)に帰るものだ。一人で生まれ、一人で帰る。いわば、この世を『卒業』するのだよ。今夜は、お前たちの家族に思いを馳せてみなさい。理不尽があれば、存分に怒り、悲しみなさい。だがな、飽きるほど怒り、悲しんだ後は、それを理解し、乗り越えてみせるのだ。」

 

和尚の瞳が、俺の心を見透かしてる気がした。 「理不尽を抱えきった者だけが、己の足で立つ。」

 

そのとき思い出していたのは、兄貴だ。
三郎。二つ上の兄貴。

 

小さい頃は、よく川で石を投げた。
俺が転ぶと、駆け寄っておんぶしてくれた。

 

けど、いつからか兄貴はお父に似てきた。
激昂すると、目の色が変わる。

 

よく追いかけられた。
廊下が、やけに長かった。

 

向かってくる兄貴。

目の周りは怒りで紫に沈んでた。

 

拳が落ちる音。
何発目かで、景色が白くなった。

 

ある日、兄貴は俺に包丁を振り回した。
刃が、光った。

 

台所の匂い。
唾が飲み込めなかった。

 

足が、勝手に動いた。

俺は、振り返らなかった。

 

それが、あのときの俺だ。

 

——これは、いよいよまずい。

 

その晩、両親が小声で話して、
俺は寺に出された。

 

 

兄貴。

俺、それでも兄貴が好きだ。

 

忘れてねぇ。笑ってた顔も、荒れた目も、
どっちも、兄貴だ。

 

……でもな。今でもしんどい。
本当に怖かったよ。

 

俺はいつも泣いて、お父とおっ母にしがみついた。
そのたびに兄貴は叱られて、廊下に立たされて。

 

暗い廊下で、こっちを見る目。
あのとき、兄貴は何を思ってたんだべな。

 

怒ってるはずなのに、
肩が上下していた。

息が荒れていた。

 

あれは、怒りだったのか。
それとも、泣くのをこらえる息だったのか。

 

俺は、見なかった。

怖くて、目をそらした。

 

「俺はいらねぇのか」って、
小さく言った声、今でも耳に残ってる。

 

俺はまだ兄貴を怖がってる。

 

今正観さんの背中を思い出すと、胸がぎゅっとなる。

 

何もわかってねぇ。
何も救えてねぇ。

……それでも。

俺はここにいる。

逃げねぇ。

抱えたまま、生きる。

 

死にたい目と、怒り狂う目は、
同じ色をしていた。

 

あのときの兄貴も。
崖の下の正観さんも。

 

叫べなかった息と、
荒れた息。

 

同じ音だった。

 

ごめんな、正観、ごめんね、兄者。ごめんね、お父、おっ母。 

 

俺はまだ、仏様なんかじゃねぇ。

 

でもな。

ここで学ぶ。
強くなる。

泣いた目も、怒った目も、
ちゃんと見られる坊主になる。

 

悟りなんて遠くていい。

まずは――生きてるやつの目を、そらさねぇ。

 

それまで、絶対に落ちねぇ。


俺は、落ちねぇ。

俺みたいな奴が、もう一人も落ちねえように。

 

涙が、あたたかい塊になって頬を伝って落ちた。 お経が、進まねえ。
嗚咽で、声が割れた。

 

でも、その苦しみは、周囲も同じで、あちらこちらですすり泣きながら読経しているのが聞こえてくる。

 

どんなに苦しくても、誰にも遠慮はしねえ。俺は俺の道の真ん中を歩く。

泣きながら、そう思った。

 

冷たい畳に、俺の膝の熱が残っていた。

震えは、まだ止まらねえ。

 

それでも。

息は、している。

 

荒くてもいい。
浅くてもいい。

 

止まらなきゃいい。

 

あの人が字を書き終えるときみたいに、
小さくてもいい。

 

俺は、生きている。

兄も、生きている。

 

それだけは、確かだ。