俺たちの朝は、三時に始まる。 せんべい布団から這い出し、身支度を整えて、お経。そして座禅だっちゃ。
いつになったら慣れんだべな。蓮華座(れんげざ)こそ組めるようになったけど、座禅の静寂の中では、すぐ、うつらうつらしてまう。
お腹減ったな。今日はまた麦粥だべか。漬物はあるんだべか……。 隣では淡雪がしたり顔で座禅を組んでるけど、こいつも全く悟ってねぇな。俺に謝ってもいねぇし。 眠気は本当に辛い……。ああ、おっ母(おっか)が見える……。おっ母、抱っこ……。
「ッッ!!」
ビシッと肩を打たれ、飛び起きた。あ〜いてぇ! 姿勢を正すけど、ものの二分でまた、とんでもねぇ眠気が来るんだい。
あ〜だめだ、本当に。なんでこんなに眠たがりなんだべ。 俺が一番若いから、一番眠いだけだっちゃ。本当だ。また来たよ、眠気のお化けが……。あ〜連れていかれる……。
ビシッ!
今度は背中だ! あ〜痛い! 隣で淡雪が、合掌しながら嫌らしく笑ってる視線を感じる。
——寝るな。呼吸に戻れ。 円龍和尚の目が、そう語っている。
俺だけ強めに叩かれてねぇか? 気を取り直して肩を上下させ、静かに呼吸へと戻っていく。
座禅は、心が落ち着いて頭がスッキリするときもあるけど、時たま不思議な世界に放り出されていくような感覚になるときがあるんだ。 これが、和尚の言う「仏の世界」なんだべか。
走馬灯みてぇに記憶が走り出す。
呼吸の奥から、あの家の匂いが立ちのぼる。
気づくと、俺ぁ里山の故郷(くに)の家の中にいた。 茅葺(かやぶき)の家。囲炉裏の前には、俺と、兄貴とお父(おど)。 懐かしい家の風景だっちゃ。
竈(かまど)でおっ母が飯を作ってる。お父はいつも通り、おっ母にごしゃいで(怒って)いた。
お父とおっ母は、いつも金のことや仕事のことでごしゃぎ合ってた。お父は毎日のようにおっ母を蹴り、殴り、家中が大騒ぎ。 でも、俺ぁ殴られそうになると、おっ母はいつも体を張って、泣きながら俺を庇ってくれた。
目の前のおっ母も、お父に足蹴にされて涙してた。 「他の男に色目使ってんじゃねぇのか!」 腹におっ母の子がいるっていうのに、お父は金のことや男のことになると目の色が変わった。あの足蹴が原因で、おっ母は流産して臥せってたっけな……。「のろま」「どんくせぇ」「めんこくねぇ」……罵り騒ぐお父の姿が映る。
おっかねぇ毎日だったべな、おっ母……。
けれど、怒鳴っているお父をじっと見つめていると、お父が震えているのに気づいた。 泣いているような目をしてる。
何かに追い詰められた獣の目みてぇだった。でもそのとき、はじめて思った。
——お父も、怖かったんだべか。
俺は気づいたら、映像の中のお父の頭を撫でていた。
さっきまで詰まっていた息が、すっと通った。
そのとき、お父の背丈が、少しだけ小さく見えた。
むせび泣いているおっ母に目を向けると、胸が締め付けられた。 何もできなかったあの頃の俺の苦しさが、胸を這い回る。俺ぁおっ母の傍に寄って、その背中に手を置いた。
おっ母。本当はおっ母は誰よりも綺麗だっちゃ。誰よりも優しい。 おっ母が生きててくれるだけで、俺ぁ嬉しいんだ。祈ってんだ。毎日、笑顔でいてけろって。
おっ母が綺麗過ぎたのかもしれねぇ。
おっ母、めんこいよ。お父の言葉を真に受けちゃだめだっちゃ。 飯もうまい、沢山働く、子供を大切にする。本当、日本一の母ちゃんだ! こんなお父から逃げずに今まで来たんだから、本当に偉いよ。俺ぁ、おっ母が大好きだ。
気づいたら、涙が頬を伝って流れていた。
——カチッ、カチッ。
拍子木の音が聞こえて、座禅が終わった。俺ぁ不思議な世界に行ってた……!
前に和尚に尋ねたら、「即心是仏(そくしんぜぶつ)」……この心こそが仏だ、と言っていた。 この息、この苦しみの中に仏があるんだと。
……でも、お父の頭の、あの感触だけは残っている。
あれが仏だっていうなら、仏様ってのは、案外、近所に住んでるおっちゃんみてぇなもんかもしれねぇ。。
朝飯は、麦粥と大根の漬物だった。 あ〜、うまい……。全身全霊で食べる。 「箸が揃ってねぇぞ!」と先輩から喝が入る。箸の先を揃えて食べるのがルールなんだべ。箸の先を揃える。
誰かの横顔が浮かんだ。
筆先を、何度も整えてから紙に向かうあの横顔だ。
箸を正して、黙々と食べる。 実家では箸を揃える余裕も、飯を味わう余裕もなかった。でも今は、叱られながらも一粒一粒の味がわかる。皮肉だっちゃね。
その後は、剣道の打ち込み稽古だ。 運動すると体が温まるし、ここでうさを晴らしてやるぜ!
道場には三十人。異様な熱気がむせ返る。 型の練習を終えたら、ここからが本番だっちゃ。
居合の雄叫びを上げながら、皆が向かってくる。 最初の頃はぶるぶる震えてたけど、今は楽しい。 思いっきりいったるで!!……と思った瞬間に、バシッと肩を打たれた。 まだタイミングが悪い。
気持ちだ、気持ち……! 次はバシッと頭に竹刀が。
次は胴を狙うんだ、胴を……。踏み込むけど、簡単に払われて、面に持っていかれる。
次は淡雪だ!! こいつだけは許さねぇ……。 燃えて燃えて、淡雪が入ってきた瞬間に、「かよ(淡雪がいつも寝言で呼ぶ女の名前)」と呟いた。 油断の隙ができたところ、渾身の力を込めて、あいつの胴を打ってやった。
「ッシャーー!!」
「空だべ、空」とか言ってやりてぇ。さっきまで居眠りしてた俺だけどな。でもぐっと堪えて一礼した。
淡雪が睨んできたのを先輩が咎め、「勝敗に感情を出すな」と注意されてる。
たまらねぇ!!
……ま、稽古の後、また淡雪にボコボコにされたのは言うまでもねぇけどな。
休憩中に外で寝転んで休んでいた時、とても気持ち良い風が自分の顔をなぞる。
お父、あの時の頭の感触、忘れてねぇぞ。 おっ母、俺、頑張っているよ。剣道も絶対、いぎなり(とても)上手くなるからね。
次は淡雪の鼻をもっとちゃんと明かしてやる。
空を流れる雲を見ながら思った。
もう、あの目は怖くねぇ。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
今度はちゃんと、自分の息だった。
それでもまだ、胸の奥のどこかがざわついていた。
