「聖徳太子はいなかった、かも・・・」みたいな教科書が
出るという(笑)

巷の好事家というか、古代史フェチ?には今更な部分ではあるが、
やはりこれも愛国教育を重視する安部政権ゆえの動きということか。


恐らく、十七条の憲法も、冠位十二階も、仏教の導入も、
いわゆる聖徳太子の業績として名高いものは、蘇我氏
(入鹿・馬子)のそれでありましょう。


蘇我氏を滅ぼした手前、蘇我氏の業績にするわけにもいかず、
首謀者たちが「聖徳太子」というスーパースターをでっちあげて、
全て彼の手柄にしときました、というのが真相ではないのか、と。


もちろん聖徳太子に比定される上宮王家の厩戸皇子は実在し、
秦氏をブレーンとして蘇我氏と共に近代化の青写真を描いていた
ことでしょう。


ついでにいえば、「厩」といって連想するのは、かのクリスマスに
「厩」でお生まれになったお方であって、キリスト教との関連性が
浮かび上がってくるわけです。


聖徳太子は秦氏と共に東方キリスト教あるいはペルシャを経由した
その複合系であるミトラ教の信奉者であり、実際、法隆寺建立には
ペルシャ人が関わっていたことが明らかになってきています。


聖徳太子を殺したのも、もちろん蘇我氏ではなかったでしょう。


ミトラ教は仏教とも融合しており、当時の日本には「弥勒信仰」
として伝わっていて、秦氏の建てた広隆寺の弥勒菩薩像はその典型
であり、「救世」観音や後に奈良の大仏へと繋がってゆきます。


そして蘇我氏こそが、大王の直轄する屯倉を開発し天皇に富を
集めて、さらには律令制を布いて中央集権体制を整えようとして
いたのです。


その目的は、当時一豪族にすぎなかった「まつりごと=神託」を
司る天皇家の基盤を磐石なものにし、実際の政治施策は蘇我氏が
担当して国家としての「大和」を安定させる。


「和をもって尊しとす」を実践するために「厚く三宝を敬う」
のであり、それは仏・法・僧を敬って一人一人が法=ダルマに
従って生きるならば必ず平和が実現できるという確信であった。


法(ダルマ)とは何か。


原始キリスト教も仏教もその根本の教えは同じである。
だからこそ自然に融合できたのであり、その教えとは、仏教の
言葉を借りれば「因果の法」及び「縁起の法」と表現できる。


「因果の法」とは、物事全ては原因と結果から成り立っている
ということであり、善因善果、悪因悪果である。


だからこそ自分の運命に善い結果を得るには、愛を実践する
他に道は無いという点で、因果律と愛の教えとは融合する。


そして「縁起の法」とは、たとえ過去の悪因によって今は悪い
運命であっても、八正道を通じて善いきっかけ「縁」を自ら
求めて愛を実践してゆけば、善き未来が「起」きるということ。


人々が、己の心を正しく統御し、正しい行いをすることが
ひいては国の平和に繋がってゆくという、その原理原則を
導入して理想の国家「大和」を実現しようとしていたのだ。


その上に「律令制」を導入して、最先端の統治機能を備えた
法治国家として、大陸の巨大な帝国の属国としてではなく、
独立国家として対等に渡り合うことを志したのではなかったか。


「その、ほぼできあがりつつあった中央集権体制を
 中臣鎌足と中大兄皇子が、そっくりそのまま横取りした」
のが、我々が教科書で習ったいわゆる「大化の改新」である。


改新どころか「変」=クーデターであり、それがいかなる
ものであったかは、後の藤原氏の専横体制を見れば火を見る
よりも明らかでありましょう。


天皇家に集まるはずの権力が、全て藤原氏に集まる体制・・・
豪族の所有していた土地は一旦全て国家のものとし、その
代わりに豪族達には「冠位」を与えたのである。


そして民を土地に結びつけ(戸籍)税収(租庸調)の基盤とした。
そうやって国土を掌握し、土地から上がる税収を中央政権に
集め、違反者は罰するしくみ(律令制)を作ったのである。


中臣鎌足の息子不比等は、やがて天皇の側近となり、勝手な
法律を作って娘を嫁がせて外戚関係を固めていった。つまり
天皇の親として中央政府に集まる富や権力を握ったのである。


不比等の時代に完成した日本の正史「日本書紀」あるいは
「古事記」こそは、藤原政権の正当性をでっちあげる為の
歴史の捏造に他ならなかった・・・


というのが、今時の「記紀」のもうひとつの読み方なのです。



この「歴史の捏造」と言うフレーズ、どこかで聞き覚えは
ないだろうか?
これこそが、まさに中国大陸、韓半島のお家芸なのです。


もちろん、当時の最先端の文化文物は、確かに半島由来、
大陸由来であったでしょう。


そしてそれの担い手である方々も、いわゆる渡来人が、
たくさんたくさん日本列島にやってきたことでしょう。
中臣鎌足その人も、どうやら百済の王子だったようですし。


しかし、その後の歴史を見れば、やがて韓半島や大陸とは
一線を画する、日本独自の国風文化や民族性が醸成されて
いったことは、もはや疑いの無いことでありましょう。


その「差」については、既に120年以上も前に、韓人や支那人の
民度があまりに日本人とかけ離れすぎているため、とてもまともに
つきあえない、と福沢諭吉先生が言い切っている程です。


中国や韓国は相変わらず「俺たちの方がお前ら(日本)より先輩だ。
お前らの文化文物は全て大陸や半島のまねしんぼだ~」と息巻く。


しかし、おたくらの文化である「歴史の捏造」でさえ、こちとら
1200年前に既に終了し、卒業しているという話vv


苦しみは自らが生みだすもの。
それを他人のせいにしている限り
永遠に進歩などあり得ないのだ。


ダルマは飾りではない。
知識として知っているだけでは何の意味も持たない。


そして心を清らかに保ち、自らの命を真・善・美に捧げ、
愛を実践する者だけが、宇宙の絶対法則を味方につけることが
できるのだ。