かつてアメリカの経済が他の追随を許さない隆盛を極めていた時、
ヨーロッパをはじめ世界各地の観光地はアメリカ人で溢れた。
しかしそこには地元の人の暮らしがあるのであって、お金を落として
くれるとはいえ、大きな図体で派手派手なウエアをまとい我が物顔で
伝統文化の街を物色するアメリカ人を、快く思わない人も多かった。
時代が下って、日本は戦後の混迷の時代を過ぎ、朝鮮戦争景気と
政府の所得倍増計画に乗って世界の経済に頭角を現し、かつての
アメリカ人のように日本人が海外の観光地に溢れかえるに至った。
しかしそこには相変らず地元の人の暮らしがあるのであって、
「旅の恥はかき捨て」のスローガンの下に老いも若きも徒党を組んで
押し寄せる日本人に対して、快く思わない人々もいたであろう。
さらに時代は下って、経済力をつけた韓国や中国の人々が、
今や世界の観光地へ押し寄せるようになった。
品性も品格もない彼らの行為の結果、現地の人とトラブルになれば、
「すみません」「ごめんなさい」と“日本語”を吐き捨て、あげくの
果てには「私は日本人です」と捨て台詞を残して立ち去ると言う・・・
そして徹底した反日教育を受けた彼らが日本の観光地を訪れれば、
例えば対馬の神社には「対馬は我が領土」とハングルで書かれた
絵馬が並び、富士山を始め神聖な土地を汚すような行為が行われる・・・
経済が減速する中、地域活性化といいながら彼らを受け入れつつも、
私たちは、彼らの振る舞いを快く思ってはいないわけだ。もっとも、
かつての海外での日本人の振る舞いのことは脇に置いてのことだが。
「郷に入っては郷に従え」
私たちは祖先から経験智としてのこの格言を受け継いでいる。
これが“よそ者”が受け入れられる条件であることを知っている。
古来より、人の住む土地とは自然環境そのものであったハズである。
そこには飲み水があり、食料となる海の幸山の幸を得ることのできる、
人間が「生きるための条件」が整った「大自然の一角」であった。
そして、その土地の風土がそこに住み着いた人の風俗風習風紀を生み、
また土地を愛する気持ちが風光を維持し、季節に風流を味わうといった
具合に、風と共に、つまり自然と共に人は歴史を紡いできたのである。
その歴史を共有するもの同士が村を作り街を起こし、風土と共に
育まれた生活の知恵や共通認識があるがゆえに、地域がまとまり、
そして国としてのまとまりができるのである。
そこに暮らす人々が互いに分かち合い助け合うことそのものが、本来の
経済活動であって、経済が安定するためのベースには、必ず「土地」と
いうもの、気候風土、つまり自然の豊かさが必要なのである。
よそ者が入ってきた時、その郷なりコミニュティーなりが持っている
“自然とのつながり”であり“生きるための暗黙の了解”である習俗や
習慣が乱されたり無視されたりすることに潜在的な危機感を感じるのだ。
私たちは、自然とは切っても切れない関係にある。
本来当たり前のことだが、生活の利便さを追うあまりに、本当に大切な
命の絆が軽んじられてきてしまったことは否めない。
日本の経済衰退の遠因は、家庭の崩壊、地域の崩壊にあるのであって、
それは、生活と密接に関係している命のゆりかごである大自然の破壊が、
私たちの心の深層にダメージを与えていることにあるのではないのか。
みんなが豊かになり幸せになると信じていた経済の発展が、
一方では目に見えないゆがみやひずみを生み出し、それが知らずの
うちに徐々に拡大していった・・・
それは日本人だけではなく、世界全体に言えるのだろうけれども
しかし戦後の廃墟から驚異的な復活を遂げた日本の経済成長が
この地球に与えた影響もまた少なからぬものがあったのではないか。
奥尻島の「津波」
阪神淡路「大震災」
想定外の地域に想定外の災害が起きた
もんじゅの事故
東海村の臨界事故
プスプスと「原子力災害」の火種はくすぶり続けていた
そして新潟県中越沖地震で、柏崎刈羽原子力発電所が被災した。
あの時、原子力発電所大丈夫か?と皆が一瞬思ったはずである。
でも、すぐ忘れた。
今思えば、東日本大震災の予兆であり警告であったのかもしれないと
思えるニュージーランド、クライストチャーチの地震が思い起こされる。
特に目立ったのは外国語学校での「日本人」留学生の犠牲者だった。
そして東日本「大震災」
「津波」による甚大な被害
多くの「日本人」の犠牲者
炉心メルトダウンによる「原子力災害」
一気に来た。
全部まとめて来た。
まるで、これまでが警告であったかのように。
そして、もし今回の東日本大震災が
更なる大災害への今ひとたびの警告であったとしたら・・・
次は間違いなくこの国の中枢が壊滅的打撃を受けるであろう。
それは、日本の破局を意味し、日本が世界の雛形であるならば、
それは日本だけにとどまらないであろう。
これはもはや、「想定外ではない」のではないだろうか。
福島第一原発の事故は、奇跡的に「この程度」に留まってくれた
としか言いようがない・・・
津波以前に、原発がそもそも地震に弱いことが露呈された。
そして、過去幾たびも津波による甚大な被害を経験した土地柄で
あったにもかかわらず、今回また多くの犠牲者がもたらされて
しまった。
人間の「想定」などあざ笑うかのように。
人間の思い上がりをくじくかのように。
バベルの塔の伝説のように。
時の政府は津波でズタズタになった風土をもてあまし、
インフラ整備はともかくも、あろうことか人々のつながり、
地域共同体の再生さえも主導することはなかった。
今こそ、風土に根ざした風習を一にする人々のつながりこそが、
地域の再生復興に一番必要なはずなのに、皆バラバラに仮設住宅に
入れられ、老人たちは孤独の中で命の灯火を失ってゆく・・・
命のゆりかごであった風土が大自然そのものによって奪われた今、
想いを共にする人々のつながりこそが、支え合い分かち合うことこそが、
再び風土を取り戻し、風光を甦らせる力になるのではないのだろうか。
プスプスプス・・・
火種は未だくすぶり続けているような気がしてならない。
先般のアルジェリアのプラント襲撃にしても、
今回のグアムの事件にしても、明らかに「日本人」の犠牲者が
目立ってきている。
G20は、意図的な為替のコントロールへの警戒感を表明し、
経済の保護主義に走ってはならないという合意を形成しようという
構えを見せている。
これは、いわゆるアベノミクスに対する牽制としか思えないし、
IOCまでもが、日本のお家芸であるレスリングをオリンピックの
種目から外そうとしているということは、単なる偶然であろうか?
誰かが、日本の光を封じ込めようとしている・・・
しかし、真実の光は皆が求める限り決して消すことはできない。
「ありがとうチモシー」の記事で書いたことが現実になりました。
グアムでの事件で母親が子どもをかばって亡くなったのです・・・
そして、世界の人々はそこに紛れも無い「愛の姿」を見ました。
地元の人々によりたくさんのキャンドルが灯され、メッセージや花が
添えられ、祈りが捧げられました。
私もまた犠牲になられた魂の平安を祈り、愛と感謝の想いを届けます。
優しさや愛に国境はありません。
そしてそれは、人間誰もが持っている一番大切な宝物なのです。
「愛」こそが唯一の真実であり、闇を祓う大いなる光なのです。
これまで経験してきた大災害も、日本人が狙われたテロ事件も、
犠牲となられた方々は皆、日本人としてのあり方を我々同胞に、
そして世界に示してくださったのではなかったのでしょうか。
私たちは、もはや小さな島国の内輪だけの会話をしていれば済む
時代を生きてはいないようです。
地球は未来へ向けて大きく舵を切りました。
人々の心が揺らぐ今の時代に生まれた私たち日本人は、明日は我が身
かもしれない数々の犠牲を伴いながら、学びながら、そして目覚め
ながら、世界に向けて愛を発信するために今この場所にいる・・・
と、私は感じているのだけれど、あなたはどう?
武器ではなく、愛の想い一つかかげて
立ち上がれ。
愛に勝るものなど何もない。
愛に恐れるものなど何も無い。
ヨーロッパをはじめ世界各地の観光地はアメリカ人で溢れた。
しかしそこには地元の人の暮らしがあるのであって、お金を落として
くれるとはいえ、大きな図体で派手派手なウエアをまとい我が物顔で
伝統文化の街を物色するアメリカ人を、快く思わない人も多かった。
時代が下って、日本は戦後の混迷の時代を過ぎ、朝鮮戦争景気と
政府の所得倍増計画に乗って世界の経済に頭角を現し、かつての
アメリカ人のように日本人が海外の観光地に溢れかえるに至った。
しかしそこには相変らず地元の人の暮らしがあるのであって、
「旅の恥はかき捨て」のスローガンの下に老いも若きも徒党を組んで
押し寄せる日本人に対して、快く思わない人々もいたであろう。
さらに時代は下って、経済力をつけた韓国や中国の人々が、
今や世界の観光地へ押し寄せるようになった。
品性も品格もない彼らの行為の結果、現地の人とトラブルになれば、
「すみません」「ごめんなさい」と“日本語”を吐き捨て、あげくの
果てには「私は日本人です」と捨て台詞を残して立ち去ると言う・・・
そして徹底した反日教育を受けた彼らが日本の観光地を訪れれば、
例えば対馬の神社には「対馬は我が領土」とハングルで書かれた
絵馬が並び、富士山を始め神聖な土地を汚すような行為が行われる・・・
経済が減速する中、地域活性化といいながら彼らを受け入れつつも、
私たちは、彼らの振る舞いを快く思ってはいないわけだ。もっとも、
かつての海外での日本人の振る舞いのことは脇に置いてのことだが。
「郷に入っては郷に従え」
私たちは祖先から経験智としてのこの格言を受け継いでいる。
これが“よそ者”が受け入れられる条件であることを知っている。
古来より、人の住む土地とは自然環境そのものであったハズである。
そこには飲み水があり、食料となる海の幸山の幸を得ることのできる、
人間が「生きるための条件」が整った「大自然の一角」であった。
そして、その土地の風土がそこに住み着いた人の風俗風習風紀を生み、
また土地を愛する気持ちが風光を維持し、季節に風流を味わうといった
具合に、風と共に、つまり自然と共に人は歴史を紡いできたのである。
その歴史を共有するもの同士が村を作り街を起こし、風土と共に
育まれた生活の知恵や共通認識があるがゆえに、地域がまとまり、
そして国としてのまとまりができるのである。
そこに暮らす人々が互いに分かち合い助け合うことそのものが、本来の
経済活動であって、経済が安定するためのベースには、必ず「土地」と
いうもの、気候風土、つまり自然の豊かさが必要なのである。
よそ者が入ってきた時、その郷なりコミニュティーなりが持っている
“自然とのつながり”であり“生きるための暗黙の了解”である習俗や
習慣が乱されたり無視されたりすることに潜在的な危機感を感じるのだ。
私たちは、自然とは切っても切れない関係にある。
本来当たり前のことだが、生活の利便さを追うあまりに、本当に大切な
命の絆が軽んじられてきてしまったことは否めない。
日本の経済衰退の遠因は、家庭の崩壊、地域の崩壊にあるのであって、
それは、生活と密接に関係している命のゆりかごである大自然の破壊が、
私たちの心の深層にダメージを与えていることにあるのではないのか。
みんなが豊かになり幸せになると信じていた経済の発展が、
一方では目に見えないゆがみやひずみを生み出し、それが知らずの
うちに徐々に拡大していった・・・
それは日本人だけではなく、世界全体に言えるのだろうけれども
しかし戦後の廃墟から驚異的な復活を遂げた日本の経済成長が
この地球に与えた影響もまた少なからぬものがあったのではないか。
奥尻島の「津波」
阪神淡路「大震災」
想定外の地域に想定外の災害が起きた
もんじゅの事故
東海村の臨界事故
プスプスと「原子力災害」の火種はくすぶり続けていた
そして新潟県中越沖地震で、柏崎刈羽原子力発電所が被災した。
あの時、原子力発電所大丈夫か?と皆が一瞬思ったはずである。
でも、すぐ忘れた。
今思えば、東日本大震災の予兆であり警告であったのかもしれないと
思えるニュージーランド、クライストチャーチの地震が思い起こされる。
特に目立ったのは外国語学校での「日本人」留学生の犠牲者だった。
そして東日本「大震災」
「津波」による甚大な被害
多くの「日本人」の犠牲者
炉心メルトダウンによる「原子力災害」
一気に来た。
全部まとめて来た。
まるで、これまでが警告であったかのように。
そして、もし今回の東日本大震災が
更なる大災害への今ひとたびの警告であったとしたら・・・
次は間違いなくこの国の中枢が壊滅的打撃を受けるであろう。
それは、日本の破局を意味し、日本が世界の雛形であるならば、
それは日本だけにとどまらないであろう。
これはもはや、「想定外ではない」のではないだろうか。
福島第一原発の事故は、奇跡的に「この程度」に留まってくれた
としか言いようがない・・・
津波以前に、原発がそもそも地震に弱いことが露呈された。
そして、過去幾たびも津波による甚大な被害を経験した土地柄で
あったにもかかわらず、今回また多くの犠牲者がもたらされて
しまった。
人間の「想定」などあざ笑うかのように。
人間の思い上がりをくじくかのように。
バベルの塔の伝説のように。
時の政府は津波でズタズタになった風土をもてあまし、
インフラ整備はともかくも、あろうことか人々のつながり、
地域共同体の再生さえも主導することはなかった。
今こそ、風土に根ざした風習を一にする人々のつながりこそが、
地域の再生復興に一番必要なはずなのに、皆バラバラに仮設住宅に
入れられ、老人たちは孤独の中で命の灯火を失ってゆく・・・
命のゆりかごであった風土が大自然そのものによって奪われた今、
想いを共にする人々のつながりこそが、支え合い分かち合うことこそが、
再び風土を取り戻し、風光を甦らせる力になるのではないのだろうか。
プスプスプス・・・
火種は未だくすぶり続けているような気がしてならない。
先般のアルジェリアのプラント襲撃にしても、
今回のグアムの事件にしても、明らかに「日本人」の犠牲者が
目立ってきている。
G20は、意図的な為替のコントロールへの警戒感を表明し、
経済の保護主義に走ってはならないという合意を形成しようという
構えを見せている。
これは、いわゆるアベノミクスに対する牽制としか思えないし、
IOCまでもが、日本のお家芸であるレスリングをオリンピックの
種目から外そうとしているということは、単なる偶然であろうか?
誰かが、日本の光を封じ込めようとしている・・・
しかし、真実の光は皆が求める限り決して消すことはできない。
「ありがとうチモシー」の記事で書いたことが現実になりました。
グアムでの事件で母親が子どもをかばって亡くなったのです・・・
そして、世界の人々はそこに紛れも無い「愛の姿」を見ました。
地元の人々によりたくさんのキャンドルが灯され、メッセージや花が
添えられ、祈りが捧げられました。
私もまた犠牲になられた魂の平安を祈り、愛と感謝の想いを届けます。
優しさや愛に国境はありません。
そしてそれは、人間誰もが持っている一番大切な宝物なのです。
「愛」こそが唯一の真実であり、闇を祓う大いなる光なのです。
これまで経験してきた大災害も、日本人が狙われたテロ事件も、
犠牲となられた方々は皆、日本人としてのあり方を我々同胞に、
そして世界に示してくださったのではなかったのでしょうか。
私たちは、もはや小さな島国の内輪だけの会話をしていれば済む
時代を生きてはいないようです。
地球は未来へ向けて大きく舵を切りました。
人々の心が揺らぐ今の時代に生まれた私たち日本人は、明日は我が身
かもしれない数々の犠牲を伴いながら、学びながら、そして目覚め
ながら、世界に向けて愛を発信するために今この場所にいる・・・
と、私は感じているのだけれど、あなたはどう?
武器ではなく、愛の想い一つかかげて
立ち上がれ。
愛に勝るものなど何もない。
愛に恐れるものなど何も無い。