このたびのソロモン諸島での大地震で
思い出したことがひとつあります。
それは、少年の日に読んだ一冊の本です。
今でも夏休みには読書感想文の宿題があるようですが(笑)、
小学生当時の私は、課題図書というものをまず読んだことは
ありませんでした。
ある年、たまたま本屋へ行った時に、課題図書や、なんとか団体
推薦図書がたくさん積まれていたわけですが、なぜかその中の
一冊が目に留まり、あろうことか買って帰ってきたのでした。
その本のタイトルは、「ありがとうチモシー」
確か舞台が、ソロモン諸島のある島での話だったと思うんです。
確かめていないので違っているかもしれません。
「ソロモン」のキーワードで想い出したとは思ったのですが、
しかしそれよりも、むしろ物語のテーマやモチーフの方が、
今回の地震と同じだなぁ・・・と、今しみじみ思えてきました。
普段忙しい親よりも、ゆっくりとした時の流れの中にいて、
人生の酸いも甘いも知り尽くした優しい笑顔の老人と、純真で
好奇心に目を輝かせる少年はいつの世でもすぐ友達になれる。。。
どうやら少年と老人には心通じ合う何かがあるようですね。
我が家にも大いなる「じじバカ」が一人おりますが(笑)
少年と老人の心温まる、そしてちょっぴり悲しい物語。。。
あやふやな記憶なのですが、この先は一応ネタバレになります
ので、ご了承ください。
どういういきさつか忘れましたが、ある島に他人同士の
少年と老人が二人きりで取り残されてしまい、サバイバル
生活が始まります。
二人の心はやがて解け合い、少年は老人から生きる智慧を
授かりながら、たくましくなってゆきます。
ところがある時、島を巨大なストームが襲います。
掘っ立て小屋は崩れ、老人は少年を覆うようにかばいながら、
なんとかストームをやり過ごします。
ようやく天候が回復して少年が老人に声を掛けた時、
老人の魂は既に天に召されておりました・・・
少年は悲しみをこらえつつ、在りし日の老人を想いながら、
「ありがとうチモシー」と言うわけです。
命を助けてくれてありがとう、はもちろんなのですが、
「男にしてくれてありがとう」みたいな、生きるための
本当の智慧を授けてもらったことへの感謝でもあったのかなと。
これを読んだ時にね、少年の日の私はふと思ったのです。
あ、チモシーはきっと天国で笑ってるな、って。
嵐を体に受けてそりゃ痛かっただろうけど、少年を護るために
チモシーはその時、岩になっていたんだろうな。
そして少年が助かって本当に嬉しいだろうな、って。
このチモシーと、ソロモン地震で私達を護ってくださった
母なる地球や神々の姿がダブったのです。
痛いけれど、嬉しいだろうな、って。
S...さんやりんごちゃんも、きっとそうだろうなって。
「無償の愛」って文字にするのは簡単なんだけど、
打算があったり、「護らねばならない」「護るべきである」なんて
頭で考えてたら、愛が苦痛になってしまうでしょう。
それでは偽善になってしまうのであって、
見るものも、「嬉しいだろうな」とはきっと感じないよね。
犠牲も奉仕も、真実の愛ならば常に喜びと共にあるハズです。
母親が無心で子どもを護る姿。
親が子どもを抱きかかえて自分が盾になろうとする姿・・・
この無意識の行動が、人の姿もまた「愛」であることを映し出す。
そして、愛の光はまた、多かれ少なかれ何らかの形で、
他のために我が身を投げ出す「犠牲」から発せられるのだと
いうことを物語っている。
つまり、ひとつひとつの「命」は、「今ここに生きている」と
いうことは、どう知らぬ存ぜぬを決め込んでも、嫌だと叫んでも、
自分以外の他の様々な命の犠牲の上に成り立っているということだ。
誰かの献身的な愛によって、何らかの生命の犠牲によって、
「私たちは生きていることができる」という厳然たる真実から
逃れることなどできないのだ。
生きている命で、愛されていないものなど無い。
愛されているからこそ、生きているのです。
私たちも、動植物、鉱物も、そして地球も月も太陽も。
宇宙全てのものが、皆愛されて生きているのです。
伝わりますでしょうか。
愛が足りないと嘆く老若男女に、
この真実を伝えてゆきたいと、
心から思うのです。
サイラム
思い出したことがひとつあります。
それは、少年の日に読んだ一冊の本です。
今でも夏休みには読書感想文の宿題があるようですが(笑)、
小学生当時の私は、課題図書というものをまず読んだことは
ありませんでした。
ある年、たまたま本屋へ行った時に、課題図書や、なんとか団体
推薦図書がたくさん積まれていたわけですが、なぜかその中の
一冊が目に留まり、あろうことか買って帰ってきたのでした。
その本のタイトルは、「ありがとうチモシー」
確か舞台が、ソロモン諸島のある島での話だったと思うんです。
確かめていないので違っているかもしれません。
「ソロモン」のキーワードで想い出したとは思ったのですが、
しかしそれよりも、むしろ物語のテーマやモチーフの方が、
今回の地震と同じだなぁ・・・と、今しみじみ思えてきました。
普段忙しい親よりも、ゆっくりとした時の流れの中にいて、
人生の酸いも甘いも知り尽くした優しい笑顔の老人と、純真で
好奇心に目を輝かせる少年はいつの世でもすぐ友達になれる。。。
どうやら少年と老人には心通じ合う何かがあるようですね。
我が家にも大いなる「じじバカ」が一人おりますが(笑)
少年と老人の心温まる、そしてちょっぴり悲しい物語。。。
あやふやな記憶なのですが、この先は一応ネタバレになります
ので、ご了承ください。
どういういきさつか忘れましたが、ある島に他人同士の
少年と老人が二人きりで取り残されてしまい、サバイバル
生活が始まります。
二人の心はやがて解け合い、少年は老人から生きる智慧を
授かりながら、たくましくなってゆきます。
ところがある時、島を巨大なストームが襲います。
掘っ立て小屋は崩れ、老人は少年を覆うようにかばいながら、
なんとかストームをやり過ごします。
ようやく天候が回復して少年が老人に声を掛けた時、
老人の魂は既に天に召されておりました・・・
少年は悲しみをこらえつつ、在りし日の老人を想いながら、
「ありがとうチモシー」と言うわけです。
命を助けてくれてありがとう、はもちろんなのですが、
「男にしてくれてありがとう」みたいな、生きるための
本当の智慧を授けてもらったことへの感謝でもあったのかなと。
これを読んだ時にね、少年の日の私はふと思ったのです。
あ、チモシーはきっと天国で笑ってるな、って。
嵐を体に受けてそりゃ痛かっただろうけど、少年を護るために
チモシーはその時、岩になっていたんだろうな。
そして少年が助かって本当に嬉しいだろうな、って。
このチモシーと、ソロモン地震で私達を護ってくださった
母なる地球や神々の姿がダブったのです。
痛いけれど、嬉しいだろうな、って。
S...さんやりんごちゃんも、きっとそうだろうなって。
「無償の愛」って文字にするのは簡単なんだけど、
打算があったり、「護らねばならない」「護るべきである」なんて
頭で考えてたら、愛が苦痛になってしまうでしょう。
それでは偽善になってしまうのであって、
見るものも、「嬉しいだろうな」とはきっと感じないよね。
犠牲も奉仕も、真実の愛ならば常に喜びと共にあるハズです。
母親が無心で子どもを護る姿。
親が子どもを抱きかかえて自分が盾になろうとする姿・・・
この無意識の行動が、人の姿もまた「愛」であることを映し出す。
そして、愛の光はまた、多かれ少なかれ何らかの形で、
他のために我が身を投げ出す「犠牲」から発せられるのだと
いうことを物語っている。
つまり、ひとつひとつの「命」は、「今ここに生きている」と
いうことは、どう知らぬ存ぜぬを決め込んでも、嫌だと叫んでも、
自分以外の他の様々な命の犠牲の上に成り立っているということだ。
誰かの献身的な愛によって、何らかの生命の犠牲によって、
「私たちは生きていることができる」という厳然たる真実から
逃れることなどできないのだ。
生きている命で、愛されていないものなど無い。
愛されているからこそ、生きているのです。
私たちも、動植物、鉱物も、そして地球も月も太陽も。
宇宙全てのものが、皆愛されて生きているのです。
伝わりますでしょうか。
愛が足りないと嘆く老若男女に、
この真実を伝えてゆきたいと、
心から思うのです。
サイラム