昨日ソロモン群島を震源とする
マグニチュード8クラスの地震がありました。
すぐ「津波は!?」と心配になりましたが、
まもなく現地の警報は解除され、わが国を含む
環太平洋各地への被害の波及はないようでありました。
現地に想いを馳せつつ、夕食時には、被害を最小限に
抑えてくださった神々のおはからいに、家族みんなで
感謝を申し上げました。
かつてりんごさんの伝えてくださった神々のお言葉から
今後気候変動や天変地異が地球規模で起こってくることは
予想されることであります。
我々人類の積み重ねてきた愛無き所業の因果によって
この母なる地球にはマイナスエネルギーが蓄積し、
その報いとしての試練は避けられるものではありません。
しかしながら、私たちが謙虚な気持ちで祈り、愛ある行いを
続けてゆくことによって、大難を小難に、小難を無難に
することができるのもまた、事実であります。
しかしその場合、エネルギー不滅の法則を引くまでも無く、
我々の微々たる祈りに巨大な地震を止められる力があろう
などとは到底思えないわけです。
むしろ、巨大なマイナスエネルギーははけ口を求めつつ
厳然として地上を破滅に導くのに十分なパワーを温存して
いると考える方が自然でしょう。
ではいったい大難を小難に変える力とは何でありましょうか。
仏恩やご神徳に「抜苦代受」というものがあります。
文字通り「私たちの苦しみを抜き取り代わりに受けてくださる」
という意味です。
神仏への信心、日ごろの善行愛行、祖父母・両親への孝行・・・
光の道を歩むものは自ずと神仏の御心に同通し、その願うところが
伝わればこそ、神々がその苦しみを引き受けてくださるのです。
「天祐は道を正して待つべし」
マイナスエネルギーが原因でわが身に起こることが、
怪我や病気や何らかの不運であるならば、
地球に起こることは天変地異でありましょう。
今回のソロモン地震において母なる地球は、本来ならば
発散させるべき巨大なマイナスエネルギーを自ら引き受け
飲み込んでくださった・・・
そういうことではなかったのだろうか?
地震の前後に体調を崩し、不安に襲われ、
頭痛や耳鳴りに苛まされた方もいらっしゃることでしょう。
私たちは母の痛みを感じることができるのです。
つまり私たちは、そういうことに想いを馳せなければなりません。
医者が診た立てて「どこにも悪いところはないんだけどねぇ・・・」と、
医者も原因がわからずに首をかしげる症例が間々あるわけです。
でも本人には、体のだるさや腰痛頭痛、人それぞれでしょうけど
厳然として実感している「苦しさ」を多くの人がうったえている
今のご時世。
仮に、本人に原因が無いのだとしたら、「誰かの痛み」だったり、
「誰かの想い」なのかもしれないという認識をもたない限り、今の
医学や科学ではその苦しさの原因や理由を見つけることは不可能です。
エドガー・ケーシーのような例があるにもかかわらず、「科学」と
いう狭い枠の中で、限定された仮定条件の中で論じられ検証される
事物のみでは、生命の全体像など把握できるものではないでしょう。
「私たちの本質は魂である」という前提なくして、「死」も「生」も
本来語ることなどできないハズなのです。
決して医学会からは資料として出ることはないだろうけれども、
病気の原因のかなりのパーセントを「憑依霊」が占めるという事実。
つまり、この世にいない「死んだ人」の影響を受けるということが
何を物語っているかと言えば、たとえ肉体が滅んでも本人は存在する、
つまり本人とは「意識」としての存在なのであるということでしょう。
もっと単純に言えば、肉体とは自分本体なのではなくて、「意識」
つまり「想い」に影響を受ける「ようなもの」なのだ、ということ
です。
それは、生身の我々の肉体の状態、あるいは健康と言ってもいいの
ですが、肉体というものは、「想い」というものを間近で発している
自分自身の心に実は、一番影響を受けている、ということなのです。
「病は気から」・・・気持ちや気分を含めて自己や他人のネガティブな
想いが、自らの体に影響を与え苦しみをもたらすことを考えた時に、
病気とは文字通りの「気の病」だということがわかるのです。
「誰かの痛み」や「誰かの想い」を受け取って苦しくなる自分がいると
するならば、それは、そのネガティブな想いと同通する=波長が合う
自分でもあるということなのです。
つまり、自分の中にも愛無き言動を生む「想いの元」があるということ
なのであって、相手の言動を非難できないばかりか同根であり、誰かの
苦しみについて自分は関係が無いとは言えない、ということなのです。
ややこしくなりました。
要するに言いたいことは、自分の想念もまた他人に影響を及ぼし得るのだ
という厳然たる事実を受け入れるに及んで、人はようやく謙虚になれるし、
優しくもなれるハズだということです。
コンピュータが静電気に影響を受けるように、我々の精密な肉体は、
言葉と言うもの、それ以前に頭で思ったこと、その「想念」そのものに
既に影響を受けているのだ、ということなのです。
ネガティブな想い(ここで言うネガティブとはマイナス思考というより、
愛のない、エゴイスティックなもの)という見えないナイフを振り回し、
無差別に自分や他人を傷つけることが果たして許されることなのか否か。
もちろん、見えないナイフを法律で裁くことなどできない。
しかし、その辺りの判断がもしできないとするならば、性根の部分が
既に腐っている=「人でなし」といわねばなりません。
我々は霊性の意識=仏性・神性から判断をしなければならないのです。
他人はもちろん、森羅万象全てがつながりあいかかわりあうこの世界に
おいて、常に慈悲の心、愛の心で物事に当たらなければ道を誤ります。
我々はいつの時でも緊張感を持って
しっかり思い起こしていなければなりません。
もう時間がないのだということを。
駿河湾沖、あるいは南海・東南海巨大地震、首都直下型大地震、
富士山などの火山の噴火などは既に「予測の範囲内」にあり、
また有史以来「終末の日」の存在が様々に伝えられてきたことを。
また精神世界の方面では盛んに「アセンション」が喧伝され
未来に対する様々なビジョンが書籍やらネットやらに溢れて
いることを。
それらの社会現象の意味することは、多くの霊的存在が何らかの
形で様々な人物や現象を通して、地上人類に大いなる示唆を与えて
いる、ということの顕れでもありましょう。
しかし大切なことは、それらのメッセージから何を汲み取るべき
なのか、ということ。
母の苦悩や痛みのわかる人間であるならば、たとえ声は聞こえ
なくとも、痛みを実感できなくとも、「想いを馳せる」ことが
できるのであれば、その応えは自らの内に問えばよいのです。
あなたは既に、この地上でなすべきことを知っているからです。
マグニチュード8クラスの地震がありました。
すぐ「津波は!?」と心配になりましたが、
まもなく現地の警報は解除され、わが国を含む
環太平洋各地への被害の波及はないようでありました。
現地に想いを馳せつつ、夕食時には、被害を最小限に
抑えてくださった神々のおはからいに、家族みんなで
感謝を申し上げました。
かつてりんごさんの伝えてくださった神々のお言葉から
今後気候変動や天変地異が地球規模で起こってくることは
予想されることであります。
我々人類の積み重ねてきた愛無き所業の因果によって
この母なる地球にはマイナスエネルギーが蓄積し、
その報いとしての試練は避けられるものではありません。
しかしながら、私たちが謙虚な気持ちで祈り、愛ある行いを
続けてゆくことによって、大難を小難に、小難を無難に
することができるのもまた、事実であります。
しかしその場合、エネルギー不滅の法則を引くまでも無く、
我々の微々たる祈りに巨大な地震を止められる力があろう
などとは到底思えないわけです。
むしろ、巨大なマイナスエネルギーははけ口を求めつつ
厳然として地上を破滅に導くのに十分なパワーを温存して
いると考える方が自然でしょう。
ではいったい大難を小難に変える力とは何でありましょうか。
仏恩やご神徳に「抜苦代受」というものがあります。
文字通り「私たちの苦しみを抜き取り代わりに受けてくださる」
という意味です。
神仏への信心、日ごろの善行愛行、祖父母・両親への孝行・・・
光の道を歩むものは自ずと神仏の御心に同通し、その願うところが
伝わればこそ、神々がその苦しみを引き受けてくださるのです。
「天祐は道を正して待つべし」
マイナスエネルギーが原因でわが身に起こることが、
怪我や病気や何らかの不運であるならば、
地球に起こることは天変地異でありましょう。
今回のソロモン地震において母なる地球は、本来ならば
発散させるべき巨大なマイナスエネルギーを自ら引き受け
飲み込んでくださった・・・
そういうことではなかったのだろうか?
地震の前後に体調を崩し、不安に襲われ、
頭痛や耳鳴りに苛まされた方もいらっしゃることでしょう。
私たちは母の痛みを感じることができるのです。
つまり私たちは、そういうことに想いを馳せなければなりません。
医者が診た立てて「どこにも悪いところはないんだけどねぇ・・・」と、
医者も原因がわからずに首をかしげる症例が間々あるわけです。
でも本人には、体のだるさや腰痛頭痛、人それぞれでしょうけど
厳然として実感している「苦しさ」を多くの人がうったえている
今のご時世。
仮に、本人に原因が無いのだとしたら、「誰かの痛み」だったり、
「誰かの想い」なのかもしれないという認識をもたない限り、今の
医学や科学ではその苦しさの原因や理由を見つけることは不可能です。
エドガー・ケーシーのような例があるにもかかわらず、「科学」と
いう狭い枠の中で、限定された仮定条件の中で論じられ検証される
事物のみでは、生命の全体像など把握できるものではないでしょう。
「私たちの本質は魂である」という前提なくして、「死」も「生」も
本来語ることなどできないハズなのです。
決して医学会からは資料として出ることはないだろうけれども、
病気の原因のかなりのパーセントを「憑依霊」が占めるという事実。
つまり、この世にいない「死んだ人」の影響を受けるということが
何を物語っているかと言えば、たとえ肉体が滅んでも本人は存在する、
つまり本人とは「意識」としての存在なのであるということでしょう。
もっと単純に言えば、肉体とは自分本体なのではなくて、「意識」
つまり「想い」に影響を受ける「ようなもの」なのだ、ということ
です。
それは、生身の我々の肉体の状態、あるいは健康と言ってもいいの
ですが、肉体というものは、「想い」というものを間近で発している
自分自身の心に実は、一番影響を受けている、ということなのです。
「病は気から」・・・気持ちや気分を含めて自己や他人のネガティブな
想いが、自らの体に影響を与え苦しみをもたらすことを考えた時に、
病気とは文字通りの「気の病」だということがわかるのです。
「誰かの痛み」や「誰かの想い」を受け取って苦しくなる自分がいると
するならば、それは、そのネガティブな想いと同通する=波長が合う
自分でもあるということなのです。
つまり、自分の中にも愛無き言動を生む「想いの元」があるということ
なのであって、相手の言動を非難できないばかりか同根であり、誰かの
苦しみについて自分は関係が無いとは言えない、ということなのです。
ややこしくなりました。
要するに言いたいことは、自分の想念もまた他人に影響を及ぼし得るのだ
という厳然たる事実を受け入れるに及んで、人はようやく謙虚になれるし、
優しくもなれるハズだということです。
コンピュータが静電気に影響を受けるように、我々の精密な肉体は、
言葉と言うもの、それ以前に頭で思ったこと、その「想念」そのものに
既に影響を受けているのだ、ということなのです。
ネガティブな想い(ここで言うネガティブとはマイナス思考というより、
愛のない、エゴイスティックなもの)という見えないナイフを振り回し、
無差別に自分や他人を傷つけることが果たして許されることなのか否か。
もちろん、見えないナイフを法律で裁くことなどできない。
しかし、その辺りの判断がもしできないとするならば、性根の部分が
既に腐っている=「人でなし」といわねばなりません。
我々は霊性の意識=仏性・神性から判断をしなければならないのです。
他人はもちろん、森羅万象全てがつながりあいかかわりあうこの世界に
おいて、常に慈悲の心、愛の心で物事に当たらなければ道を誤ります。
我々はいつの時でも緊張感を持って
しっかり思い起こしていなければなりません。
もう時間がないのだということを。
駿河湾沖、あるいは南海・東南海巨大地震、首都直下型大地震、
富士山などの火山の噴火などは既に「予測の範囲内」にあり、
また有史以来「終末の日」の存在が様々に伝えられてきたことを。
また精神世界の方面では盛んに「アセンション」が喧伝され
未来に対する様々なビジョンが書籍やらネットやらに溢れて
いることを。
それらの社会現象の意味することは、多くの霊的存在が何らかの
形で様々な人物や現象を通して、地上人類に大いなる示唆を与えて
いる、ということの顕れでもありましょう。
しかし大切なことは、それらのメッセージから何を汲み取るべき
なのか、ということ。
母の苦悩や痛みのわかる人間であるならば、たとえ声は聞こえ
なくとも、痛みを実感できなくとも、「想いを馳せる」ことが
できるのであれば、その応えは自らの内に問えばよいのです。
あなたは既に、この地上でなすべきことを知っているからです。