神社にお参りする様になってから、私的には
どうやら、日本の歴史そのものをもう一度
見直してみるような事態になってきている(笑)
どうも、古事記・日本書紀のあたりで
何かが渦巻いていて、その先というか、その前の
歴史が見えてこない・・・
結局大和朝廷以前は神話の世界になってしまって、
中国の歴史書にその名を残す倭国も、卑弥呼も、
その全容は未だに謎に包まれている・・・
一方、青森の三内丸山遺跡や佐賀の吉野ヶ里などは、
単なる縄文・弥生などということばでは括れない、
スケールの大きな文明性や高度な文化性を感じさせる。
また、S...さんとりんごさんに見せていただいた
隼人の洞窟空間といったら、宇宙そのもののような
神秘に包まれている。。。
といったように、何かとても宇宙的なスケールの、
日本人の本質的な部分が隠されているような気が
してならないのだ。
学生の頃、私は世界史と地理は大好きだったが、
日本史はなぜか、どうも好きになれなかった。
恐らくその理由とは、日本の歴史の精神性というか、
スピリチュアルな部分の言及が一切ないことに、
真実を知る魂が不満を感じていたからであろう。
しかし、ここで注意しなければならないのは、
ここでいうスピリチュアルとは、巷で言う「スピ系」
などというオカルトチックなまやかしのことではない。
人間を人間たらしめる「本質」、それは、自然を自然
たらしめる、あるいは、宇宙を宇宙たらしめる本質で
あり、日本人を本来の日本人たらしめるものである。
すなわち、「愛」である。
日本の歴史をさかのぼると神々に出会い、神々を
想う自分になってみると、「愛」にたどりついた。
つまりこれが、シンプルだが「日本の歴史」そのもの
なのである。
そう思って自分の住む町を見回してみれば、なんと
神社仏閣の多いことか!!!
日本のそこかしこに、愛を想うための宮が存在し、
なんとそれはずっとずっと、いにしえの時代より、
その土地を見守り続けてきているのだ。
つまり神社は、私たちの祖先から今の私たちに至る
全ての人間の歩みを、その歴史を、見続けているので
ある。
私たちは、神々のまなざしに、神々の愛に
包まれている・・・
心静かにそのことを想えば、歴史は自分の内に帰結する。
つまり、今、この時に命をいただいている自分の役割が、
歴史の舞台を創る一人の役者としての自分が見えてくる。
それをなぜに、占いだ運命鑑定だリーディングだ、
魔除けだ除霊だ厄除けだ、ヒーリングだ、やれ何とか
エネルギーだって、「カタチ」を追うのか。。。
しかも、自分のことであるのに、自分の内なる声を
聞かずに、他人まかせにするとは危険すぎる・・・
ある意味それは、究極の無責任とも言えるであろう。
内なる声、すなわち魂の声、すなわち内なる神の声、
である。
その声を聞くための方法を、お釈迦様は説かれた。
即ち、八正道である。
同様に人の道として、イエスは「愛」を、孔子は
「仁」を説かれた。
いずれも、内なる神に至る道である。
神の叡智、パーニャパラミタの扉を開く道である。
自らの内に、愛の想いを高めること以上に
スピリチュアルなことなどあり得ない。
なぜなら、愛の思いこそ、神々とのホットラインが
つながる唯一の周波数であり、チャネルであるからだ。
歴史の向かう方向、つまり私たち一人一人が演じる
日々の舞台は、人類共通の一つの思い、すなわち
「愛」の大合唱というフィナーレに向かわねばならない。
しかして、まもなく選挙だ。
世界の中で日本の演ずる役割を、明確に述べ得る
候補は、果たして幾人いるのだろうか・・・
歴史の舞台の拍手の鳴り止まないカーテンコールへ
向かって、リーダーシップを発揮できる政治家は
果たしているのだろうか・・・
我々は、正しい目で「人間」を選ばねばならない。
そのためには、私たち自身が正しく見、正しく聞き、
真実を話さなければならない。
どうやら、日本の歴史そのものをもう一度
見直してみるような事態になってきている(笑)
どうも、古事記・日本書紀のあたりで
何かが渦巻いていて、その先というか、その前の
歴史が見えてこない・・・
結局大和朝廷以前は神話の世界になってしまって、
中国の歴史書にその名を残す倭国も、卑弥呼も、
その全容は未だに謎に包まれている・・・
一方、青森の三内丸山遺跡や佐賀の吉野ヶ里などは、
単なる縄文・弥生などということばでは括れない、
スケールの大きな文明性や高度な文化性を感じさせる。
また、S...さんとりんごさんに見せていただいた
隼人の洞窟空間といったら、宇宙そのもののような
神秘に包まれている。。。
といったように、何かとても宇宙的なスケールの、
日本人の本質的な部分が隠されているような気が
してならないのだ。
学生の頃、私は世界史と地理は大好きだったが、
日本史はなぜか、どうも好きになれなかった。
恐らくその理由とは、日本の歴史の精神性というか、
スピリチュアルな部分の言及が一切ないことに、
真実を知る魂が不満を感じていたからであろう。
しかし、ここで注意しなければならないのは、
ここでいうスピリチュアルとは、巷で言う「スピ系」
などというオカルトチックなまやかしのことではない。
人間を人間たらしめる「本質」、それは、自然を自然
たらしめる、あるいは、宇宙を宇宙たらしめる本質で
あり、日本人を本来の日本人たらしめるものである。
すなわち、「愛」である。
日本の歴史をさかのぼると神々に出会い、神々を
想う自分になってみると、「愛」にたどりついた。
つまりこれが、シンプルだが「日本の歴史」そのもの
なのである。
そう思って自分の住む町を見回してみれば、なんと
神社仏閣の多いことか!!!
日本のそこかしこに、愛を想うための宮が存在し、
なんとそれはずっとずっと、いにしえの時代より、
その土地を見守り続けてきているのだ。
つまり神社は、私たちの祖先から今の私たちに至る
全ての人間の歩みを、その歴史を、見続けているので
ある。
私たちは、神々のまなざしに、神々の愛に
包まれている・・・
心静かにそのことを想えば、歴史は自分の内に帰結する。
つまり、今、この時に命をいただいている自分の役割が、
歴史の舞台を創る一人の役者としての自分が見えてくる。
それをなぜに、占いだ運命鑑定だリーディングだ、
魔除けだ除霊だ厄除けだ、ヒーリングだ、やれ何とか
エネルギーだって、「カタチ」を追うのか。。。
しかも、自分のことであるのに、自分の内なる声を
聞かずに、他人まかせにするとは危険すぎる・・・
ある意味それは、究極の無責任とも言えるであろう。
内なる声、すなわち魂の声、すなわち内なる神の声、
である。
その声を聞くための方法を、お釈迦様は説かれた。
即ち、八正道である。
同様に人の道として、イエスは「愛」を、孔子は
「仁」を説かれた。
いずれも、内なる神に至る道である。
神の叡智、パーニャパラミタの扉を開く道である。
自らの内に、愛の想いを高めること以上に
スピリチュアルなことなどあり得ない。
なぜなら、愛の思いこそ、神々とのホットラインが
つながる唯一の周波数であり、チャネルであるからだ。
歴史の向かう方向、つまり私たち一人一人が演じる
日々の舞台は、人類共通の一つの思い、すなわち
「愛」の大合唱というフィナーレに向かわねばならない。
しかして、まもなく選挙だ。
世界の中で日本の演ずる役割を、明確に述べ得る
候補は、果たして幾人いるのだろうか・・・
歴史の舞台の拍手の鳴り止まないカーテンコールへ
向かって、リーダーシップを発揮できる政治家は
果たしているのだろうか・・・
我々は、正しい目で「人間」を選ばねばならない。
そのためには、私たち自身が正しく見、正しく聞き、
真実を話さなければならない。