NHK大河ドラマ「平清盛」

いよいよ源頼朝が旗挙げをし、
平家の世は終焉へと向かってゆく・・・


伊豆に流されていた頼朝が起居した「蛭ヶ島」も、
頼朝の背中を押しまくった政子の生家「北条」も、
三嶋大社の祭典の日に奇襲され討たれた「山木」も、
実になじみの深い地元の「地名」なのであります。


平家軍が水鳥の羽音にビビって敗走した「富士川」も、
頼朝と義経が涙の再会を果たした「対面石」も、
その対面石が保存されている八幡神社も、
これまた地元の源氏ゆかりの地であります。


すぐ隣の町内にある「間眠(まどろみ)神社」は、
頼朝が源氏再興の願掛けに毎日三嶋大社に通う途中、
この神社で休んで昼寝をしたことにちなむという。

この神社、元々は蛭ヶ小島に程近い、韮山の多田長崎の
集落にあったものが、狩野川の氾濫によって三島まで
流されてきたのだという。

なので、今もなお、元の鎮座地である多田長崎の方々が
800年以上の長きに渡って、毎年注連縄を奉納している
という変わった神社だ。


また、こんなエピソードもある。

箱根西麓の雨水を集める来光川は、函南町を縦断し
大場川と合流して狩野川に注ぐ、三島と田方の境界だ。

ある時、頼朝が三嶋大社参詣の途中、この川にかかる橋の
たもとまで来たが、大水でこの橋が流されてしまって
渡ることができずに困っていた。

すると、どこからともなく大蛇が現れ、自らが橋となって
向こう岸まで頼朝を渡したのだという。。。

現在は国道136号線が通るこの橋は、以来「蛇ヶ橋」と
呼ばれるようになった。


「島流し」とはいえ「蛭が小島」とは、島は島でも
絶海の孤島ではなく、狩野川の氾濫原である田方平野の
中ほどにあった、いわば「中州」であった。


頼朝の監視役をしていたのが山木判官兼隆であったが、
頼朝自身は三嶋大社へ参拝したり、寺の和尚から兵法を
学んだと伝えられるように、比較的自由であったようだ。


もちろん、政子との恋も、その自由度があったからこそ、
成就したともいえるだろう。
しかし、腐っても元は源氏の頭領の御曹司。


田舎で落ちぶれていようが、そこはかとなく「都の人」であり、
いかんともしがたい「品の良さ」が、オーラとして醸し出されて
いたことは想像に難くない。


そんな頼朝が外に自由に出歩くことができたとしたら、
政子でなくとも、伊豆の田舎娘は「ひと目会ったその日から、
恋の花咲くこともある♪」状態ではなかっただろうか。。。


もしかしたら、政子にハッパかけられるまで源氏再興なんて
眼中になくて、それを目当てに?つまりナンパ目的で?
町まで出かける日々もあったのかも知れない・・・(笑)

 
そうなるとつまり、恋の成就の一方では、
悲恋もまたつきものだ、ということになってくるのである。。。


ツ・ミ・ツ・ク・リ
モテル男はつらいねぇ・・・ ってか。


いやいや、いやいやいや、
そんな生やさしいもんじゃありゃしまへんがな。


次回はその辺を。