歴史研究家の関裕二氏の著作によれば、
日本の正史とされる「日本書紀」とは、要するに・・・
"韓流"藤原氏の正当性・正統性をでっちあげる目的で編纂され、
本当のヤマト建国の立役者を歴史上から抹殺するために
史実を歪曲し捏造したものだという・・・
「古事記」も同時期に編纂されたものだが、「日本書紀」と微妙に
ニュアンスが違うのは、この本当のヤマトの立役者を完全に抹殺せずに
それとなく残しているためなのだ。
つまり「古事記」の方は、「抹殺された側」を代弁する者達が、
藤原氏に睨まれない程度にぼかしつつ、ヤマト建国に貢献した
偉大なる先達の御名を歴史に残そう試みたもの、といえようか。
つまり、「日本書紀」と「古事記」双方に登場する神や神の名(字面)を
丁寧に比較検証すれば、歴史上から抹殺されていった方々が誰なのか、
つまり本当のヤマト建国の立役者は誰だったのかが見えてくるというわけだ。
そのようなヤマト建国にまつわる真相は、民間伝承の形で、つまり
いわゆる「おとぎ話」の形でも語り継がれてもいるのだという・・・
我々にもなじみの深い、一寸法師、金太郎、浦島太郎・・・それらである。
まぁ「かぐや姫」などは、明らかにアンチ藤原氏色の強い作品であり、
かぐや姫に求婚して失態をさらす者どもは実在の人物であったようで、
藤原氏の権勢を苦々しく思う勢力もまた当然ながら存在した証でもある。
むしろ、歴史から抹殺されていった者たちこそが、古代より祭祀を
つかさどり、神霊日本を担ってきた " 霊験あらたかな " 氏族で
あったとしたならば、韓流大和朝廷はその"祟り"を恐れたに違いない。
歴代天皇のおくりな、いわゆる諡号に「神」のつく天皇、そして
同じく「神」の文字がその名に刻まれた神功皇后こそが、どうやら
ヤマト建国の鍵を握っているようだ。
そして、記紀編纂当時の政権は彼らの祟りを恐れていた・・・
なぜならば、実際に " 祟り " は起きていたからであるという・・・
さらに宮中では「園神」「韓神」と称する神々が共に篤く
祀られていたという。
園神とはこの国の神のことであり、韓神とは朝鮮半島由来の神と
いうことであろうが、このことは、日本という国を考える上で
とても特徴的な事象といえよう。
園神とは、大物主神(つまり、ニギハヤヒ命)であり、
韓神とは、大己貴神と少彦名神、であるという。
大己貴神とは大国主命であって、言わずと知れた「出雲系」の
大神である。
大国主命は、スサノオ命の娘である須瀬理姫を妻に迎えており、
スサノオの系譜が「韓神」として祀られていることになる。
このことは、ヤマト建国当時の「出雲」が、「韓神」に象徴される
ように、朝鮮半島つまり「韓」と密接なつながりがあったことを
示唆している。
一方、園神のニギハヤヒ命は、神武東征の前に既にヤマトを治めていた
神であり、天照国照なんたらと長い名前があるが、天照とはまさしく
太陽であって、太陽信仰の勢力が既にヤマトにあったことを意味する。
しかも、神武東征を指南した塩土老翁は、ニギハヤヒのことを
天孫族と「同族だ」と話していることから、ニギハヤヒもまた
出雲系あるいはもっと言えば朝鮮半島由来の神ということになる。
ただ、ニギハヤヒは義父である長髄彦を倒し、神武にヤマトを
譲ったと記されていることから、同族とはいえニギハヤヒのヤマトは
明らかに天孫族に服従した=征服されたという図式が伺える。
あるいは何らかの理由で、天孫族を受け入れなければならない事情が
当時のヤマトにはあった、ということなのだ。
その何らかの理由こそ、前述の「神」のつく諡号と深い関係が
あるのだと、関氏は主張している。
この塩土老翁という人物はとても謎めいているのだが、記紀神話に
おいてはその名に「神」とはつかないものの、非常に重要な役割を
果たしていることがわかる。
あの海幸山幸の話においても、この塩爺のアドバイスによって
天孫族の皇子(山幸彦=火遠理命=彦火火出見尊)は、龍宮城へ
向かったのであった。
そして海神の娘を嫁にもらい、海神の協力を得て、ついには
兄(海幸彦=火照命=火明命=隼人の祖)を支配するに至る・・・
この海幸山幸神話と瓜二つのおとぎ話が「浦島太郎」であって、
この浦島伝説をたどると、出雲と伽耶(要するに韓国)との
つながりがみえてくるという。。。
冒頭でご紹介した関裕二氏は、この浦島太郎とは、神功皇后と
行動を共にし、また「夫婦の秘め事」をしたとも記されている
武内宿禰のことであり、同時に塩土老翁であると論じている・・・
そして、朝鮮半島(伽耶)と出雲を含む山陰地方と九州北部の
密接な関係性が、「豊(トヨ)」というキーワードによって
浮かび上がってくるのだという。
それは、関氏の
「なぜ天孫降臨はヤマトではなく南部九州だったのか」
という素朴な疑問に対する、ひとつの答えを導き出すものであった。
北部九州の豊前・豊後とは「豊国(トヨのくに)」なのであって、
それは、朝鮮半島の南部に位置していた伽耶からもたらされた
稲作技術によって文字通り実り豊かな土地になったのだ。
従って「豊」の名を持つ地名や人名は、伽耶と密接な関係があり、
それは豊かさの象徴である水稲栽培技術を持つ民であり、同時に
「熊」つまりそれは日の隈=雲=雨=水の利を崇める民であった。
スサノオの詠んだ歌に「八雲立つ」とあるのも、彼の子孫が築いた
王国「出雲」に「雲」の文字があるのも、黄金色の実りをもたらす
恵みの雨、そして雨を運ぶ雲への感謝と尊崇の念が込められていよう。
また、朴炳植著の「ヤマト原記」によれば、大国主命と共に出雲の
国造りに貢献した少彦名命の、つまり「スクナ」は「スクネ」と
同じであり、武内宿禰が出雲出身者であることを表しているという。
「ヤマト原記」は、日本語や朝鮮語における発音の遷移に注目し、
漢字の音を借りて記述されている記紀を、古代・現代朝鮮語や
日本語における音訓とその意味から明快に解きほぐしている。
それによれば、タケウチスクネとは「スクナ(→スクネ)」の国の
「タケウチ=豪族・貴い人」という意味であり、「スクナ」とは
「スガ=清い・良い」+「ナ=土地・国」の意味であるという。
つまり、「タケウチスクネ」は「スクナヒコ=スクナの国の
貴い人」と同じ意味に使われた名前だと論じている。
そして、スクナの国がなぜ出雲を示すかといえば、「スガ」とは
ヤマタノオロチを退治したスサノオが櫛稲田姫と新居を構えた地で
あり、稲田姫の名のごとく出雲は豊かな稲作地帯であったわけだ。
だとすれば、出雲の国づくりに大いに手腕を発揮したとされる
少彦名命とは、一方では北陸出身で、山陰地方を経由しながら
熊襲征伐のため北部九州に入った神功皇后の右腕でもあったのだ。
そして、熊襲征伐のために共に九州入りしていた神功皇后の
ダンナ仲哀天皇が変死した後、神功皇后と共に三韓征伐に出かけ
多大な戦果を挙げて凱旋した将軍も武内宿禰なのであり、
さらには、日向の地において若き日の神武天皇にヤマト入りを
指南した塩土老翁その人でもあったとしたならば、ヤマト建国の
立役者とはまさに、出雲系のこの方々だったのではなかったのか。
なぜ武内宿禰が七変化して記紀に登場するのかといえば、彼こそが
藤原氏以前に皇室と外戚関係を結びながら権力の絶頂期を迎える
蘇我蝦夷・馬子・入鹿に至る蘇我本宗家の祖だったからなのである。
蘇我氏は権勢を牛耳り横暴を極めたために、歴史から抹殺された。
しかし、一族の祖である武内宿禰はヤマト建国の立役者であった・・・
一方では悪者、一方ではヒーローという矛盾が難解な「神話」を生んだ。
そしてスクナヒコナは、稲作技術を広めながら朝鮮半島を席巻しつつ
あった熊(雲)信仰の百済の影響を受け、自らも太陽信仰から熊信仰
への政権交代を余儀なくされた「新羅」の王族であったのだという・・・
つまり、武内宿禰は元々太陽信仰族であった新羅の王族であったが、
新羅が熊信仰に変わってしまったため、日本に"戻った"のであり、
それが、大国主が少彦名命を引佐の浜で迎える場面であるという。
ほら、海の向こうから籠舟に乗ってやって来る神は誰だっけ?
やがて神功皇后と共に、かつての(太陽信仰の)新羅を奪還すべく、
少彦名命(武内宿禰)は仇敵百済と連合を組んでまでも三韓征伐に
でかけたのであった・・・
要するに、大和建国のはじめは、朝鮮半島での勢力争いが、そのまま
この日本の地に移されて、百済vs新羅のバトルが繰り広げられていた、
というわけだ。
ふふっ
わけわかんねぇ~~~~ って感じよね。(笑)
まぁ古代史は知れば知るほど韓流だってことです。
だって、当時はあっちが先進地域で、
こっちが発展途上国だったんだから仕方ないでしょ。
でもね、今の日本と韓国じゃ国民の性質が大違いでしょ?
今の日本が、元々はあっちから来た人々が先導して作った国
だとしたら、兄弟であるはずなのになぜこうも違うかっ?
そこが、日本の日本たる所以でしょう。
日本に来てよかったね♪
って話なんです。
だからね、過去がどうのこうの、どーでもいいんです。
今が大事なの、今が。
そして、未来を変えてゆけるのも、「今」しかないのです。
お疲れしたっ!
日本の正史とされる「日本書紀」とは、要するに・・・
"韓流"藤原氏の正当性・正統性をでっちあげる目的で編纂され、
本当のヤマト建国の立役者を歴史上から抹殺するために
史実を歪曲し捏造したものだという・・・
「古事記」も同時期に編纂されたものだが、「日本書紀」と微妙に
ニュアンスが違うのは、この本当のヤマトの立役者を完全に抹殺せずに
それとなく残しているためなのだ。
つまり「古事記」の方は、「抹殺された側」を代弁する者達が、
藤原氏に睨まれない程度にぼかしつつ、ヤマト建国に貢献した
偉大なる先達の御名を歴史に残そう試みたもの、といえようか。
つまり、「日本書紀」と「古事記」双方に登場する神や神の名(字面)を
丁寧に比較検証すれば、歴史上から抹殺されていった方々が誰なのか、
つまり本当のヤマト建国の立役者は誰だったのかが見えてくるというわけだ。
そのようなヤマト建国にまつわる真相は、民間伝承の形で、つまり
いわゆる「おとぎ話」の形でも語り継がれてもいるのだという・・・
我々にもなじみの深い、一寸法師、金太郎、浦島太郎・・・それらである。
まぁ「かぐや姫」などは、明らかにアンチ藤原氏色の強い作品であり、
かぐや姫に求婚して失態をさらす者どもは実在の人物であったようで、
藤原氏の権勢を苦々しく思う勢力もまた当然ながら存在した証でもある。
むしろ、歴史から抹殺されていった者たちこそが、古代より祭祀を
つかさどり、神霊日本を担ってきた " 霊験あらたかな " 氏族で
あったとしたならば、韓流大和朝廷はその"祟り"を恐れたに違いない。
歴代天皇のおくりな、いわゆる諡号に「神」のつく天皇、そして
同じく「神」の文字がその名に刻まれた神功皇后こそが、どうやら
ヤマト建国の鍵を握っているようだ。
そして、記紀編纂当時の政権は彼らの祟りを恐れていた・・・
なぜならば、実際に " 祟り " は起きていたからであるという・・・
さらに宮中では「園神」「韓神」と称する神々が共に篤く
祀られていたという。
園神とはこの国の神のことであり、韓神とは朝鮮半島由来の神と
いうことであろうが、このことは、日本という国を考える上で
とても特徴的な事象といえよう。
園神とは、大物主神(つまり、ニギハヤヒ命)であり、
韓神とは、大己貴神と少彦名神、であるという。
大己貴神とは大国主命であって、言わずと知れた「出雲系」の
大神である。
大国主命は、スサノオ命の娘である須瀬理姫を妻に迎えており、
スサノオの系譜が「韓神」として祀られていることになる。
このことは、ヤマト建国当時の「出雲」が、「韓神」に象徴される
ように、朝鮮半島つまり「韓」と密接なつながりがあったことを
示唆している。
一方、園神のニギハヤヒ命は、神武東征の前に既にヤマトを治めていた
神であり、天照国照なんたらと長い名前があるが、天照とはまさしく
太陽であって、太陽信仰の勢力が既にヤマトにあったことを意味する。
しかも、神武東征を指南した塩土老翁は、ニギハヤヒのことを
天孫族と「同族だ」と話していることから、ニギハヤヒもまた
出雲系あるいはもっと言えば朝鮮半島由来の神ということになる。
ただ、ニギハヤヒは義父である長髄彦を倒し、神武にヤマトを
譲ったと記されていることから、同族とはいえニギハヤヒのヤマトは
明らかに天孫族に服従した=征服されたという図式が伺える。
あるいは何らかの理由で、天孫族を受け入れなければならない事情が
当時のヤマトにはあった、ということなのだ。
その何らかの理由こそ、前述の「神」のつく諡号と深い関係が
あるのだと、関氏は主張している。
この塩土老翁という人物はとても謎めいているのだが、記紀神話に
おいてはその名に「神」とはつかないものの、非常に重要な役割を
果たしていることがわかる。
あの海幸山幸の話においても、この塩爺のアドバイスによって
天孫族の皇子(山幸彦=火遠理命=彦火火出見尊)は、龍宮城へ
向かったのであった。
そして海神の娘を嫁にもらい、海神の協力を得て、ついには
兄(海幸彦=火照命=火明命=隼人の祖)を支配するに至る・・・
この海幸山幸神話と瓜二つのおとぎ話が「浦島太郎」であって、
この浦島伝説をたどると、出雲と伽耶(要するに韓国)との
つながりがみえてくるという。。。
冒頭でご紹介した関裕二氏は、この浦島太郎とは、神功皇后と
行動を共にし、また「夫婦の秘め事」をしたとも記されている
武内宿禰のことであり、同時に塩土老翁であると論じている・・・
そして、朝鮮半島(伽耶)と出雲を含む山陰地方と九州北部の
密接な関係性が、「豊(トヨ)」というキーワードによって
浮かび上がってくるのだという。
それは、関氏の
「なぜ天孫降臨はヤマトではなく南部九州だったのか」
という素朴な疑問に対する、ひとつの答えを導き出すものであった。
北部九州の豊前・豊後とは「豊国(トヨのくに)」なのであって、
それは、朝鮮半島の南部に位置していた伽耶からもたらされた
稲作技術によって文字通り実り豊かな土地になったのだ。
従って「豊」の名を持つ地名や人名は、伽耶と密接な関係があり、
それは豊かさの象徴である水稲栽培技術を持つ民であり、同時に
「熊」つまりそれは日の隈=雲=雨=水の利を崇める民であった。
スサノオの詠んだ歌に「八雲立つ」とあるのも、彼の子孫が築いた
王国「出雲」に「雲」の文字があるのも、黄金色の実りをもたらす
恵みの雨、そして雨を運ぶ雲への感謝と尊崇の念が込められていよう。
また、朴炳植著の「ヤマト原記」によれば、大国主命と共に出雲の
国造りに貢献した少彦名命の、つまり「スクナ」は「スクネ」と
同じであり、武内宿禰が出雲出身者であることを表しているという。
「ヤマト原記」は、日本語や朝鮮語における発音の遷移に注目し、
漢字の音を借りて記述されている記紀を、古代・現代朝鮮語や
日本語における音訓とその意味から明快に解きほぐしている。
それによれば、タケウチスクネとは「スクナ(→スクネ)」の国の
「タケウチ=豪族・貴い人」という意味であり、「スクナ」とは
「スガ=清い・良い」+「ナ=土地・国」の意味であるという。
つまり、「タケウチスクネ」は「スクナヒコ=スクナの国の
貴い人」と同じ意味に使われた名前だと論じている。
そして、スクナの国がなぜ出雲を示すかといえば、「スガ」とは
ヤマタノオロチを退治したスサノオが櫛稲田姫と新居を構えた地で
あり、稲田姫の名のごとく出雲は豊かな稲作地帯であったわけだ。
だとすれば、出雲の国づくりに大いに手腕を発揮したとされる
少彦名命とは、一方では北陸出身で、山陰地方を経由しながら
熊襲征伐のため北部九州に入った神功皇后の右腕でもあったのだ。
そして、熊襲征伐のために共に九州入りしていた神功皇后の
ダンナ仲哀天皇が変死した後、神功皇后と共に三韓征伐に出かけ
多大な戦果を挙げて凱旋した将軍も武内宿禰なのであり、
さらには、日向の地において若き日の神武天皇にヤマト入りを
指南した塩土老翁その人でもあったとしたならば、ヤマト建国の
立役者とはまさに、出雲系のこの方々だったのではなかったのか。
なぜ武内宿禰が七変化して記紀に登場するのかといえば、彼こそが
藤原氏以前に皇室と外戚関係を結びながら権力の絶頂期を迎える
蘇我蝦夷・馬子・入鹿に至る蘇我本宗家の祖だったからなのである。
蘇我氏は権勢を牛耳り横暴を極めたために、歴史から抹殺された。
しかし、一族の祖である武内宿禰はヤマト建国の立役者であった・・・
一方では悪者、一方ではヒーローという矛盾が難解な「神話」を生んだ。
そしてスクナヒコナは、稲作技術を広めながら朝鮮半島を席巻しつつ
あった熊(雲)信仰の百済の影響を受け、自らも太陽信仰から熊信仰
への政権交代を余儀なくされた「新羅」の王族であったのだという・・・
つまり、武内宿禰は元々太陽信仰族であった新羅の王族であったが、
新羅が熊信仰に変わってしまったため、日本に"戻った"のであり、
それが、大国主が少彦名命を引佐の浜で迎える場面であるという。
ほら、海の向こうから籠舟に乗ってやって来る神は誰だっけ?
やがて神功皇后と共に、かつての(太陽信仰の)新羅を奪還すべく、
少彦名命(武内宿禰)は仇敵百済と連合を組んでまでも三韓征伐に
でかけたのであった・・・
要するに、大和建国のはじめは、朝鮮半島での勢力争いが、そのまま
この日本の地に移されて、百済vs新羅のバトルが繰り広げられていた、
というわけだ。
ふふっ
わけわかんねぇ~~~~ って感じよね。(笑)
まぁ古代史は知れば知るほど韓流だってことです。
だって、当時はあっちが先進地域で、
こっちが発展途上国だったんだから仕方ないでしょ。
でもね、今の日本と韓国じゃ国民の性質が大違いでしょ?
今の日本が、元々はあっちから来た人々が先導して作った国
だとしたら、兄弟であるはずなのになぜこうも違うかっ?
そこが、日本の日本たる所以でしょう。
日本に来てよかったね♪
って話なんです。
だからね、過去がどうのこうの、どーでもいいんです。
今が大事なの、今が。
そして、未来を変えてゆけるのも、「今」しかないのです。
お疲れしたっ!