S...さんのブログ記事から
全文引用させていただきます
~~~~~~~ ここから ~~~~~~~
セヴァ(愛のこもった無私の奉仕)・・・聖典より
何百万もの人々がカーシーへ巡礼にやって来ます。
カーシーを見た者は
再び生まれてくることはないと言われています。
ある日、カイラーサ山で
パールヴァティー女神がシヴァ神に尋ねました。
「主よ、あなたを礼拝するための
名高い寺院があるカーシーを訪れる者は、
皆カイラーサに到達し、
あなたの御前に留まることができると
言われているとお聞きしました。
大勢の者たちがカーシーへ行きます。
でも、ここカイラーサに、
その全員を収容できるだけの
広さがあるでしょうか?」
シヴァは答えました。
「何百万人もの人間全員が
カイラーサに来ることはできない。
一つ芝居を打って、
その大勢の中で誰がここに来ることができるかを、
そなたに明らかにしてやろう。
そなたにも一役買ってもらう。
私の言う通りにしなさい」
パールヴァティーは八十歳の醜い老婆に、
シヴァは九十歳のよぼよぼの老人に姿を変えました。
老婆は膝の上に老人を抱きかかえ、
シヴァを祀る有名なヴィシュウェーシュワラ寺院の正門で、
寺院へ向かう参道を通り過ぎる巡礼たちに
哀れみを誘う口調で懇願しました。
「主人はひどく喉が渇いております。
渇きのあまり死にそうです。
私は主人を残して
ガンジス河の水を汲みには行けません。
どなたか、主人の喉に少しだけ水を注いで、
命を助けてやってくれませんか?」
セヴァほど実り豊かな祈りはない
巡礼者たちは、聖河で儀礼の沐浴を済ませ、
ガート〔水際の階段〕から上がって来ていました。
衣類はまだ濡れており、
体にぴったりと張り付いていました。
中には、この不憫ふびんな夫婦の姿を見て、
平安をかき乱されたことを嘆く者たちもいました。
「せっかく神のダルシャンを受けに来たというのに、
何というものを見てしまったのか」
老女の叫びをにべもなく無視して、
鼻をツンとすましている者たちもいました。
また、
「待ちなさい。お寺で礼拝を済ませてから、
後でガンジスの水を持って来るから」
と言う者もいました。
老いた病人に必要とされる助けを申し出た者は、
誰一人いませんでした。
ちょうどその時、すりを働くために
寺院へ急いでいた一人の泥棒が、
老婆の哀れな声を耳にして、
その老夫婦に近づきました。
泥棒は尋ねました。
「お母さん、一体どうしたんだい?」
老婆は答えました。
「お若い方、私らはカーシーの
ヴィシュウェーシュワラ神のダルシャンを受けに
ここへ来ました。
ところが、主人はすっかり疲れ果て、
気を失ってしまったのです。
もし誰かがほんの少しガンジス河の水を汲んできて、
主人の喉を潤してくれたなら、
命は助かるかもしれません。
私は、主人をここに残して水を汲みには行けません。
どうか私を助けて、功徳を積んでくだされ」
泥棒の慈悲の心がかき立てられました。
泥棒は空洞の瓢箪(ひょうたん)の中に入れた
ガンジス河の水を少し持っていました。
泥棒は老婆の膝の上で死にかけている老人のかたわらに
跪ひざまずきましたが、
老婆は泥棒を制止して言いました。
「ガンジスの水が喉を潤した途端、
主人は死ぬかもしれません。
この人は末期の状態です。
ですから真実の言葉を話して、
それから水を飲ませてやってください」
老婆が何を言っているのか
泥棒には理解できなかったので、老婆は説明しました。
「主人の耳に聞こえるように、
あなたが人生で為した何か良い行いを話すのです。
それから、主人の口に水を注いでやってください」
困ったことになりました。
泥棒は途方に暮れました。
それにはまるで応じることができなかったからです。
泥棒は言いました。
「お母さん、実を言うと、
おいらは今まで一度も良い行いをしたことがない。
今の、この行い、この喉が渇いた人に
水を差し出すことが、おいらの請け合える、
生まれて初めての良い行いなんだ」
そう言うと、泥棒は瓢箪を老人の唇に当てて、
一口分の水を注ぎました。
その瞬間、老夫婦の姿は消え去り、
その場にシヴァとパールヴァティーが立っていました。
シヴァは言いました。
「息子よ、人生は自分自身の排他的な関心にではなく、
他者への奉仕に捧げるべきものだ。
これまでどれほど多くの
悪い行いをしてきたとしても、
おまえの口から出た真実の言葉と、
ガンジス河の水という無私の捧げ物により、
我らはこの神聖な姿を見せておまえを祝福する。
真実ほど高潔な道徳はなく、
セヴァ(愛のこもった無私の奉仕)ほど
実り豊かな祈りはないことを、覚えておくがよい」
~~~~~~~ ここまで ~~~~~~~
まずは、聖典からとても素敵なお話をご紹介くださった
S...さんに感謝申し上げます。
このお話の中から、3つの大切なことを
学ばせていただきました。
ひとつ。
神は人の姿にて現れ、私達を試されるということ。
マザーテレサが、貧困にあえぐ人々の中に
神の姿を見ていたのは、正しい信仰と生涯を
セヴァに捧げた彼女の「真実」でしょう。
ふたつ。
「反省」こそが、神々に祝福される日々の務めであること。
また、たとえ過ちを犯したとしても、
内なる「真実」の光に照らして心から反省をすれば、
赦される機会が与えられ得るということ。
みっつ。
「真実」を述べることのみが、神に仕える道であること。
それは、「自分に都合良く嘘をつかない」ということ。
それは、「過ちは素直に認め、隠蔽しない」ということ。
それは、「正直でなければ慈悲心の発露はない」ということ。
わざわざ高い山の聖地や寺院に行って祈るよりも、
周りの困っている方、苦しんでいる方に手を差し伸べ、
人々のために尽くせば、そこに神がいらっしゃるのだということ。
良心に従い、愛のこもった無私の奉仕をする者を
神は見ていてくださる、祝福してくださるということ。
セヴァを行う一人一人の心が神のおわす寺院や神殿であり、
私たちが愛の奉仕を行う、まさにその場所こそが、
祝福された「聖地」になる、ということですね♪
祈りとは「愛行」であり「奉仕」である。
行動がともなってこそ祈りは実を結ぶ。
「神の国」「極楽浄土」「ユートピア」いずれも同じ意味であるが、
いわゆる「地上の楽園」あるいは「ミロクの世」とは、神が与える
ものではなく、我々自身の姿を映して創造されるものなのである。
シヴァ神、パールヴァティー神よ
ありがとうございました。
大変わかりやすい神理でした♪
全文引用させていただきます
~~~~~~~ ここから ~~~~~~~
セヴァ(愛のこもった無私の奉仕)・・・聖典より
何百万もの人々がカーシーへ巡礼にやって来ます。
カーシーを見た者は
再び生まれてくることはないと言われています。
ある日、カイラーサ山で
パールヴァティー女神がシヴァ神に尋ねました。
「主よ、あなたを礼拝するための
名高い寺院があるカーシーを訪れる者は、
皆カイラーサに到達し、
あなたの御前に留まることができると
言われているとお聞きしました。
大勢の者たちがカーシーへ行きます。
でも、ここカイラーサに、
その全員を収容できるだけの
広さがあるでしょうか?」
シヴァは答えました。
「何百万人もの人間全員が
カイラーサに来ることはできない。
一つ芝居を打って、
その大勢の中で誰がここに来ることができるかを、
そなたに明らかにしてやろう。
そなたにも一役買ってもらう。
私の言う通りにしなさい」
パールヴァティーは八十歳の醜い老婆に、
シヴァは九十歳のよぼよぼの老人に姿を変えました。
老婆は膝の上に老人を抱きかかえ、
シヴァを祀る有名なヴィシュウェーシュワラ寺院の正門で、
寺院へ向かう参道を通り過ぎる巡礼たちに
哀れみを誘う口調で懇願しました。
「主人はひどく喉が渇いております。
渇きのあまり死にそうです。
私は主人を残して
ガンジス河の水を汲みには行けません。
どなたか、主人の喉に少しだけ水を注いで、
命を助けてやってくれませんか?」
セヴァほど実り豊かな祈りはない
巡礼者たちは、聖河で儀礼の沐浴を済ませ、
ガート〔水際の階段〕から上がって来ていました。
衣類はまだ濡れており、
体にぴったりと張り付いていました。
中には、この不憫ふびんな夫婦の姿を見て、
平安をかき乱されたことを嘆く者たちもいました。
「せっかく神のダルシャンを受けに来たというのに、
何というものを見てしまったのか」
老女の叫びをにべもなく無視して、
鼻をツンとすましている者たちもいました。
また、
「待ちなさい。お寺で礼拝を済ませてから、
後でガンジスの水を持って来るから」
と言う者もいました。
老いた病人に必要とされる助けを申し出た者は、
誰一人いませんでした。
ちょうどその時、すりを働くために
寺院へ急いでいた一人の泥棒が、
老婆の哀れな声を耳にして、
その老夫婦に近づきました。
泥棒は尋ねました。
「お母さん、一体どうしたんだい?」
老婆は答えました。
「お若い方、私らはカーシーの
ヴィシュウェーシュワラ神のダルシャンを受けに
ここへ来ました。
ところが、主人はすっかり疲れ果て、
気を失ってしまったのです。
もし誰かがほんの少しガンジス河の水を汲んできて、
主人の喉を潤してくれたなら、
命は助かるかもしれません。
私は、主人をここに残して水を汲みには行けません。
どうか私を助けて、功徳を積んでくだされ」
泥棒の慈悲の心がかき立てられました。
泥棒は空洞の瓢箪(ひょうたん)の中に入れた
ガンジス河の水を少し持っていました。
泥棒は老婆の膝の上で死にかけている老人のかたわらに
跪ひざまずきましたが、
老婆は泥棒を制止して言いました。
「ガンジスの水が喉を潤した途端、
主人は死ぬかもしれません。
この人は末期の状態です。
ですから真実の言葉を話して、
それから水を飲ませてやってください」
老婆が何を言っているのか
泥棒には理解できなかったので、老婆は説明しました。
「主人の耳に聞こえるように、
あなたが人生で為した何か良い行いを話すのです。
それから、主人の口に水を注いでやってください」
困ったことになりました。
泥棒は途方に暮れました。
それにはまるで応じることができなかったからです。
泥棒は言いました。
「お母さん、実を言うと、
おいらは今まで一度も良い行いをしたことがない。
今の、この行い、この喉が渇いた人に
水を差し出すことが、おいらの請け合える、
生まれて初めての良い行いなんだ」
そう言うと、泥棒は瓢箪を老人の唇に当てて、
一口分の水を注ぎました。
その瞬間、老夫婦の姿は消え去り、
その場にシヴァとパールヴァティーが立っていました。
シヴァは言いました。
「息子よ、人生は自分自身の排他的な関心にではなく、
他者への奉仕に捧げるべきものだ。
これまでどれほど多くの
悪い行いをしてきたとしても、
おまえの口から出た真実の言葉と、
ガンジス河の水という無私の捧げ物により、
我らはこの神聖な姿を見せておまえを祝福する。
真実ほど高潔な道徳はなく、
セヴァ(愛のこもった無私の奉仕)ほど
実り豊かな祈りはないことを、覚えておくがよい」
~~~~~~~ ここまで ~~~~~~~
まずは、聖典からとても素敵なお話をご紹介くださった
S...さんに感謝申し上げます。
このお話の中から、3つの大切なことを
学ばせていただきました。
ひとつ。
神は人の姿にて現れ、私達を試されるということ。
マザーテレサが、貧困にあえぐ人々の中に
神の姿を見ていたのは、正しい信仰と生涯を
セヴァに捧げた彼女の「真実」でしょう。
ふたつ。
「反省」こそが、神々に祝福される日々の務めであること。
また、たとえ過ちを犯したとしても、
内なる「真実」の光に照らして心から反省をすれば、
赦される機会が与えられ得るということ。
みっつ。
「真実」を述べることのみが、神に仕える道であること。
それは、「自分に都合良く嘘をつかない」ということ。
それは、「過ちは素直に認め、隠蔽しない」ということ。
それは、「正直でなければ慈悲心の発露はない」ということ。
わざわざ高い山の聖地や寺院に行って祈るよりも、
周りの困っている方、苦しんでいる方に手を差し伸べ、
人々のために尽くせば、そこに神がいらっしゃるのだということ。
良心に従い、愛のこもった無私の奉仕をする者を
神は見ていてくださる、祝福してくださるということ。
セヴァを行う一人一人の心が神のおわす寺院や神殿であり、
私たちが愛の奉仕を行う、まさにその場所こそが、
祝福された「聖地」になる、ということですね♪
祈りとは「愛行」であり「奉仕」である。
行動がともなってこそ祈りは実を結ぶ。
「神の国」「極楽浄土」「ユートピア」いずれも同じ意味であるが、
いわゆる「地上の楽園」あるいは「ミロクの世」とは、神が与える
ものではなく、我々自身の姿を映して創造されるものなのである。
シヴァ神、パールヴァティー神よ
ありがとうございました。
大変わかりやすい神理でした♪