S...さんのブログ記事。

ここ数日の「メッセージ」と「学び」はとても大切です。
(まぁ、いつでも、どれでも大切なのですが・・・)




表題は論語の超有名な一節ですが
今、まさにそういう心境です。

子曰
學而時習之 不亦説乎
有朋自遠方来 不亦楽乎
人 不知而不慍 不亦君子乎

この現代語訳はとてもいい感じですね。


S...さんのブログ記事は、それこそ陸上競技の
トラックにおける長距離走のように、何周も何周も
読ませていただいています。


そして神々のメッセージや聖典の教えを
どのように生活の中に、また子育てに取れ入れて
学びを深めてゆけるか・・・


つまり、目には見えない「霊性」というものを
どうしたら自分なりに高めてゆくことができるのか・・・
ここ2年間はそんな歩みを続けて参りました。


ゴミ拾いも、食前の祈りも、牛や豚を食べないことも、
ガヤトリー・マントラを何日も続けて108回唱えることも、
記事に出てくることは全て課題だと思って取り組んできました。


なるほど、そうした一つ一つの積み重ねが、
やはり自分の内面を充実させ、人生に張りを与え、
運命を好転させ、喜びをもたらせてくれたのです。


その間、この「しあわせのコンパス」の記事では、
自分なりに理解した「神理」のアウトプットと、
実践報告の意味合いを込めて様々綴って参りました。



実は「ゴミ拾い」の効果は、S...さんの記事に出会う
以前から感じていましたし、わかっていました。


まぁ、ゴミ拾いそのものというより、

「おはようございます♪」
「いってらっしゃい!」

道行く人々に、元気よくあいさつする。
すると、最初は黙々と歩いていた方々が、
お互いに顔をあわせれば挨拶をかわすようになる。


そこに、「笑顔の交歓」が生まれるのです。
一日のスタートのほんの一瞬なんだけど、
そこに「よい氣」が生まれるのです。


このことが、とてもよい結果をもたらして
いることは間違いないのです。
これはきっと、相手にとってもそうでしょう♪


何はなくとも、たとえお金などなくとも、
「心地よさ」や「気持ち」や「気分」はプレゼントする
こともできるし、分かち合うことができるのです♪



もちろん今でも、毎朝自分の店から東西それぞれ
ワンブロックの範囲で、ほうきとチリトリを持って
掃除をしています。


S...さんに出会ってからは「サイラム」と口ずさみながら♪
そしてそこに、神の姿を見ながら。。。



今改めて言える、「大切なこと」は、
「ご利益(ごりやく)」を求めない、ということ。
つまり、行為に「見返りを求めない」ということ。


これは、神社への参拝といっしょですね。
全ての行為は「奉仕」であり、「愛行」であるべきで、
なぜならそれは、「報恩」であり「奉納」であるからです。



この「ご利益を求めない」という部分、今はあたりまえの
ことなのですが、今のような「かんながら」の道に出会う前は、
ちょっとニュアンスが違っていました。


僕の場合はいわゆる「成功法則」の中でよく言われている、
「陰徳を積む」ということを知ったので実践するように
なったのが始まりなのです。


つまり、「成功している人」は「寄付をしている」とか、
「トイレ掃除」をすると「運がよくなる」とか、
そういうたぐいの「法則」があるでしょ? アレです。


今、ハッキリ言えます。
これ間違ってます。


いや、「現象としてそう見えてるだけ」というべきか。。。

トイレを掃除すれば運がよくなるとか、
ボランティアをすればお金持ちになるとか、
そこに直接的な因果関係はないのです。


それは、幸運アイテムを買えば運がよくなるとか、
厄払いを受ければ病気が治るとか、
そこに因果関係がないのといっしょです。


逆に言えば、そういうことが実際に効果をもたらす、
結果がちゃんと出る人もいる、ということなのですが、
そこのところは「成功法則」では決して語られない。


そもそも「成功している人」という概念を
「お金持ち」とか「大富豪」と考えているとしたら、
その、そもそもの出発点が間違っているのです。


この地球に生を受けた「人間」において、
「成功者」とは、「神様に愛される者」だと、
今、僕はここにハッキリと定義します。


その、「真の成功者」は、神の加護を受け
願いが叶ってゆくのです。


その願いとは、

「この人を助けたい」
「もっと人のためになりたい」
「もっと困窮者の力になりたい」・・・

すなわち「愛の想い」に他なりません。


そして、神の僕として働けることこそを
自らの誇りとし、また喜びとして人生を全うする。


そういう人が身につけているものや、
そういう人の行いを見たのなら、
恐らく、ものすごくシンプルだと思うはずです。


それこそがまさしく「開運グッズ」であり、
「運命を開く方法」なのだと思うのですが。。。


でも世間の人はなぜか、「キラキラしたもの」を
開運グッズだと思い込み、「高額なもの」を
霊験あらたかな、ありがたいものと思い込むのです。


おかしいですよね(笑)


そこには、「出したもの(お金)に見合った見返り」を
求める深層心理があります。
だから、足元を見られたり、弱みに付け込まれる。


誰に?
(もちろん、あっちのお方です 笑)



キラキラ輝くべきは「グッズ」ではなく、
己自身の「こころ」でありましょう。


一人一人の「こころ」の純粋で美しい輝きこそが、
神仏の御心に通じ、運を開いてゆくのですから。