6月の始めの日曜日。
家族を誘って「ある場所」にゴミ拾いに行ってから、
もう何度も通っています。
マントラ108回が毎日の日課になってしまったように、
日曜のゴミ拾いも習慣になってしまいました。
さしずめ「日曜礼拝」といったところでしょうか(笑)
「祈りとは行動することである。」
そんな言葉が心に浮かんできます。
私たちの日常が祈りであり、
生活の中にこそ祈りがあるべきだ、と
思っています。
先般、原発の再稼動に反対して多くの人々が集まりました。
原爆症や水俣病や薬害エイズの問題も、被害者はもちろん、
痛みを分かち合える人々の想いと行動が実を結んできました。
そのような大きな流れに比べて、ゴミ拾いなんて、
ほんの日常の他愛も無いひとコマに過ぎないかもしれない。
でも、こころに湧いた「想い」が自分を駆り立てる。
毎日多くの車が行き交う道路脇のゴミが気になって仕方が無い・・・
ゴミ拾いに行かないと落ち着かない・・・
先々週の日曜は自分ひとりで、
先週の日曜はママと二人で。
家族は自由参加です。
皆の自発的な意志に任せています。
もちろん、ゴミの落ちているところは
他にもたくさんあるでしょう。
でも、「そこ」に行きたいと想う。
その自分のこころのままに、足の向くままに、
内なる声に導かれるままに・・・
熊本で大きな災害が発生してしまいました。
昨年は、熊野でやはり大規模な水の被害・・・
熊野、熊本・・・
私たちは熊が神の使いであることを学んできました。
その神々のふるさとで「水」の洗礼・・・
「今まで生きてきて、こんなことは初めてです・・・」
家を押し流されて涙にくれるご老人の姿に言葉を失います。
山津波は教えているのです。
東日本大震災の大津波は、決して決して他人事ではないのだと。
次の原発事故が起きて取り返しがつかなくなる前に、
多くの人々の心に愛の灯がともってゆくことを願わずには、
祈らずには、いられません・・・
もう私たちは受け入れなくてはなりません。
自然災害なのではないということを。
全ては人災なのだということを。
家族を誘って「ある場所」にゴミ拾いに行ってから、
もう何度も通っています。
マントラ108回が毎日の日課になってしまったように、
日曜のゴミ拾いも習慣になってしまいました。
さしずめ「日曜礼拝」といったところでしょうか(笑)
「祈りとは行動することである。」
そんな言葉が心に浮かんできます。
私たちの日常が祈りであり、
生活の中にこそ祈りがあるべきだ、と
思っています。
先般、原発の再稼動に反対して多くの人々が集まりました。
原爆症や水俣病や薬害エイズの問題も、被害者はもちろん、
痛みを分かち合える人々の想いと行動が実を結んできました。
そのような大きな流れに比べて、ゴミ拾いなんて、
ほんの日常の他愛も無いひとコマに過ぎないかもしれない。
でも、こころに湧いた「想い」が自分を駆り立てる。
毎日多くの車が行き交う道路脇のゴミが気になって仕方が無い・・・
ゴミ拾いに行かないと落ち着かない・・・
先々週の日曜は自分ひとりで、
先週の日曜はママと二人で。
家族は自由参加です。
皆の自発的な意志に任せています。
もちろん、ゴミの落ちているところは
他にもたくさんあるでしょう。
でも、「そこ」に行きたいと想う。
その自分のこころのままに、足の向くままに、
内なる声に導かれるままに・・・
熊本で大きな災害が発生してしまいました。
昨年は、熊野でやはり大規模な水の被害・・・
熊野、熊本・・・
私たちは熊が神の使いであることを学んできました。
その神々のふるさとで「水」の洗礼・・・
「今まで生きてきて、こんなことは初めてです・・・」
家を押し流されて涙にくれるご老人の姿に言葉を失います。
山津波は教えているのです。
東日本大震災の大津波は、決して決して他人事ではないのだと。
次の原発事故が起きて取り返しがつかなくなる前に、
多くの人々の心に愛の灯がともってゆくことを願わずには、
祈らずには、いられません・・・
もう私たちは受け入れなくてはなりません。
自然災害なのではないということを。
全ては人災なのだということを。