道路の脇に平気で捨てられるゴミたち・・・
それは、
「心」が捨てられているのだ。
道端に、
恥ずかしげもなくためらいもなく
無造作に、
「こころ」が落ちている。
道端で、生理的欲求のまま
糞尿をする飼い犬や
盛りがついた野良猫と
変わらないのではないか・・・
動物的な本能の欲求を「動物心」とするならば、
その心はコントロールされてこそ、
「人間らしく」ふるまうことができる。
人間が「万物の霊長」を名乗るのならば、
貪り食う姿など見せるべきではないし、
まして、その痕跡を残すなど無礼千万であろう。
なぜならば、コンビニの袋、弁当のプラスチック容器、
ペットボトル・・・それら人間の生み出した「ゴミ」は、
自然には還らないものだからだ。
それは、自然とは相容れない波動を持つもの。
自然のサイクルの中で分解し再生されない、
つまり自然に溶け込まないもの。
ゴミそれ自体が「不調和」なのだ。
それにさらに人間の不調和な「こころ」が
追い討ちをかける。
その場に「捨てる」という行為によって現象化された
「悪意」。
「そんな大げさな~」って
あなたは笑うかもしれない。
「たかがゴミひとつに何言ってんだよ?」
ってあなたは思ってるかもしれない。
ジョン・レノンの「イマジン」にも
同じようなセリフがあったね。
「あなたは、私が夢見る夢子ちゃんだと言うかもしれないね」
でも、僕は子ども達に伝えます。
道端に捨てられたゴミがどんなに最低最悪で、
そして、危険なものであるのかを・・・
つづく
それは、
「心」が捨てられているのだ。
道端に、
恥ずかしげもなくためらいもなく
無造作に、
「こころ」が落ちている。
道端で、生理的欲求のまま
糞尿をする飼い犬や
盛りがついた野良猫と
変わらないのではないか・・・
動物的な本能の欲求を「動物心」とするならば、
その心はコントロールされてこそ、
「人間らしく」ふるまうことができる。
人間が「万物の霊長」を名乗るのならば、
貪り食う姿など見せるべきではないし、
まして、その痕跡を残すなど無礼千万であろう。
なぜならば、コンビニの袋、弁当のプラスチック容器、
ペットボトル・・・それら人間の生み出した「ゴミ」は、
自然には還らないものだからだ。
それは、自然とは相容れない波動を持つもの。
自然のサイクルの中で分解し再生されない、
つまり自然に溶け込まないもの。
ゴミそれ自体が「不調和」なのだ。
それにさらに人間の不調和な「こころ」が
追い討ちをかける。
その場に「捨てる」という行為によって現象化された
「悪意」。
「そんな大げさな~」って
あなたは笑うかもしれない。
「たかがゴミひとつに何言ってんだよ?」
ってあなたは思ってるかもしれない。
ジョン・レノンの「イマジン」にも
同じようなセリフがあったね。
「あなたは、私が夢見る夢子ちゃんだと言うかもしれないね」
でも、僕は子ども達に伝えます。
道端に捨てられたゴミがどんなに最低最悪で、
そして、危険なものであるのかを・・・
つづく