夏合宿での「畑中マジック」体験・・・
これが、「僕はこの場所にいたい」という想いを
決定的にしました。
実は、先輩方だけがオンステする「四連」という演奏会があって、
1年生は客席で聴いたのですが、その時の曲目『Nänie(哀悼歌)』との出会いが
既に方向性を決定付けてはいました。
「美しいものもまた死なねばならない」
それは人間と神との間に厳然と存在する掟であり、
何人も、ゼウスの心を揺るがすことなどできない・・・
ギリシャ神話のエピソードを引用しながら、
人の死は神々でさえもどうすることもできないのだ、と
死者を悼み歌われる。
かつてオルフェウスの愛がハーデスの心を溶かし、
死者が甦るかにみえたが、冥界の王は再びエウリディケを
自らの元に引き戻してしまった・・・
アフロディテの愛した美少年アドーニスも、
無残にも猪の牙にその身を引き裂かれたのだ・・・
ギリシャ神話の英雄アキレウスを、その不死身の母でさえ
救うことはできなかった・・・
アキレウスがスカイア門で倒れたとき、
彼の母である女神テティスは海神ネーレウスの娘達と共に
海上に立ちのぼり、彼のために嘆きの歌を歌った・・・
その女神の嘆きが怒涛のようなメロディで押し寄せる。
元々この曲は、男女混声の合唱曲なのですが、
我が団は男声だけなのにもかかわらず、
確かに女性の声が響いていたのです。
まるで本当に女神が歌っているかのように。
鳥肌・・・(笑)
後にそれは、倍音とよばれる共鳴現象であると知りました。
見よ、神々が、女神達が泣いている!
美しきものも色あせることに、
無敵を誇る者も死に行くことに・・・
そして詩人はこう結びます。
「愛する者の唇に嘆きの歌があることはすばらしい」
なぜなら、神々がその死を悼み嘆きの歌を歌ってくれるような
英雄でも美少年でもない我々凡夫は、ただただ音もなく寂しく
冥界へまっすぐに下ってゆくだけなのだから・・・
きっとブラームスは、死者が寂しくないようにと、せめて音楽が
死者の行く道を照らすたいまつであるようにと、友人であった画家の
死に接して、シラーの詩に想いを託したのではないでしょうか。
シラーの詩にしても、ブラームスの音楽にしても、その作品の根底に
人間に対する「大きな愛」を感じます。
そして、人間が本来持っている、その「美しき心の世界」を音楽で
表現する術を、畑中先生は私たちに教えてくださったのです。
「音楽する」ことが、人生を「生きる」ということと同じなのだと
教えてくださった。
ブラームスはこの作品を、最愛の息子をなくしたその画家の母親に
捧げています。
※フリードリッヒ・シラーの詩ではもちろん、神話の内容をいちいち
こんなふうに説明してはいませんが、詩の雰囲気を少しでもお伝え
したいと思って私の勝手な意訳で失礼させていただきました。
というような訳で、私の中では、「大学」を卒業したというより、
「この合唱団」を卒業したと言った方がしっくりきます(笑)
まぁ、「大学行って何してんだ」という御指摘はごもっとも。
でも、どう言われようと、どう思われようと、それでも僕は、
4年間この合唱団に在籍できて本当によかったと思っています。
なぜなら、この合唱団でまがりなりにも「美の追求」をさせて
いただくことができたことこそが、先生のおっしゃるように
「一生の宝物」になったと確信しているからです。
だからこそ、今、私は迷わず確信を持って、
毎日ガヤトリー・マントラを108回唱えることができるのです。
なぜなら、そこに「天上の響き」があるからです。
なぜなら、そこに「大きな愛」があるからなのです。
つづく
これが、「僕はこの場所にいたい」という想いを
決定的にしました。
実は、先輩方だけがオンステする「四連」という演奏会があって、
1年生は客席で聴いたのですが、その時の曲目『Nänie(哀悼歌)』との出会いが
既に方向性を決定付けてはいました。
「美しいものもまた死なねばならない」
それは人間と神との間に厳然と存在する掟であり、
何人も、ゼウスの心を揺るがすことなどできない・・・
ギリシャ神話のエピソードを引用しながら、
人の死は神々でさえもどうすることもできないのだ、と
死者を悼み歌われる。
かつてオルフェウスの愛がハーデスの心を溶かし、
死者が甦るかにみえたが、冥界の王は再びエウリディケを
自らの元に引き戻してしまった・・・
アフロディテの愛した美少年アドーニスも、
無残にも猪の牙にその身を引き裂かれたのだ・・・
ギリシャ神話の英雄アキレウスを、その不死身の母でさえ
救うことはできなかった・・・
アキレウスがスカイア門で倒れたとき、
彼の母である女神テティスは海神ネーレウスの娘達と共に
海上に立ちのぼり、彼のために嘆きの歌を歌った・・・
その女神の嘆きが怒涛のようなメロディで押し寄せる。
元々この曲は、男女混声の合唱曲なのですが、
我が団は男声だけなのにもかかわらず、
確かに女性の声が響いていたのです。
まるで本当に女神が歌っているかのように。
鳥肌・・・(笑)
後にそれは、倍音とよばれる共鳴現象であると知りました。
見よ、神々が、女神達が泣いている!
美しきものも色あせることに、
無敵を誇る者も死に行くことに・・・
そして詩人はこう結びます。
「愛する者の唇に嘆きの歌があることはすばらしい」
なぜなら、神々がその死を悼み嘆きの歌を歌ってくれるような
英雄でも美少年でもない我々凡夫は、ただただ音もなく寂しく
冥界へまっすぐに下ってゆくだけなのだから・・・
きっとブラームスは、死者が寂しくないようにと、せめて音楽が
死者の行く道を照らすたいまつであるようにと、友人であった画家の
死に接して、シラーの詩に想いを託したのではないでしょうか。
シラーの詩にしても、ブラームスの音楽にしても、その作品の根底に
人間に対する「大きな愛」を感じます。
そして、人間が本来持っている、その「美しき心の世界」を音楽で
表現する術を、畑中先生は私たちに教えてくださったのです。
「音楽する」ことが、人生を「生きる」ということと同じなのだと
教えてくださった。
ブラームスはこの作品を、最愛の息子をなくしたその画家の母親に
捧げています。
※フリードリッヒ・シラーの詩ではもちろん、神話の内容をいちいち
こんなふうに説明してはいませんが、詩の雰囲気を少しでもお伝え
したいと思って私の勝手な意訳で失礼させていただきました。
というような訳で、私の中では、「大学」を卒業したというより、
「この合唱団」を卒業したと言った方がしっくりきます(笑)
まぁ、「大学行って何してんだ」という御指摘はごもっとも。
でも、どう言われようと、どう思われようと、それでも僕は、
4年間この合唱団に在籍できて本当によかったと思っています。
なぜなら、この合唱団でまがりなりにも「美の追求」をさせて
いただくことができたことこそが、先生のおっしゃるように
「一生の宝物」になったと確信しているからです。
だからこそ、今、私は迷わず確信を持って、
毎日ガヤトリー・マントラを108回唱えることができるのです。
なぜなら、そこに「天上の響き」があるからです。
なぜなら、そこに「大きな愛」があるからなのです。
つづく